『 チューリップ 』



 一人の中年の男が公園のベンチに腰を下ろし、足元を見つめている。公園には大きな桜の木

が七、八本あるが、どれもすでにすっかり花を落とし、淡い黄緑色に輝いている。あたり一面

に散った花びらは昨夜の雨で地面にはりつき、風が吹いても舞い上がることはない。男の靴の

周りにも、無数の白い花びらがはり絵のように折り重なっている。男は地面に向けた視線の先

を一点に据え、いつまでもじっとしたまま動こうとしない。



 しばらくして、男が座ったベンチに近い入り口の方から、かすかに不規則に鳴る鈴の音が聞

こえてきた。男が我に帰りそちらを見やると、年老いた女が、今ではあまり見かけることのな

いリヤカーを引いているのが目に入った。やがてその老女は、入り口の車止めの鉄柱に二、三

度リヤカーをぶつけ、苦労しながら中へ入ってきた。リヤカーの引き手には、真ん中あたりに

小さな鈴が下げられていた。


 老女は桜の木とベンチの間にリヤカーを止めると、引き手を上に押し上げ、少し曲がり気味

の腰を難儀そうにさらに折り曲げて、引き手をくぐって出てきた。そして、二つ並んだベンチ

の男が座っている方のベンチの前に来ると、首に巻いていた手ぬぐいを左手に取りながら、

「いいかね?」と半ば独り言のような言い方で声を掛けた。男が何か言おうとしたときには既

に男の隣に腰を下ろしていた。


「見かけないお方だね。この町にお住まいかね?」


 老女が静かに言った。話し掛けて悪くなかったかね?と聞いているようでもあった。

「いえ、この町は初めてです」


 
男は老女の方に体を向けて言った。かまいませんよ、と答えるように。男はふと自分の母親

が生きていればこんな年格好ではなかろうかと、感傷的にではなくただ単にそう思った。


「あのリヤカーは、何を引いているんですか?」

 男が尋ねると、年老いた女は元気良く答えた。

「野菜をね」

「野菜を?」

「売って歩ってるのさ」

 鈴を鳴らしているのはそのためと合点がいったが、あんな優しい鳴り方では家の中にまで聞

こえるはずはなかろうにと、男は腹の底の方で少し可笑しく感じた。


「静かな町ですね」

「そうね、でもそのうちに賑やかになるよ」

 老女が少し愉快そうに顔をほころばせながら言った。八十近いと思われる年老いた女の顔が

男には一瞬可愛らしく感じられた。


「野菜を買い求める客たちが集まってくるんですか?」

「まさか」

 
老女は声を出して笑った。男はいい笑顔だなと感じた。そしてふと思った――そう言えば、

自分はもうどれくらい笑いも笑顔もなくしてしまっているだろう。


「まあ、お急ぎでなければもうしばらくとどまっておいきなさいよ」

 
老女は秘密をもったいぶる少女のような表情を浮かべていた。そして、大きな仕草で左腕を

顔の前に突き出し、シャツの袖をたくし上げた。その手首には、小さな女の子が初めて買って

もらったような、ピンク色をしたベルトの腕時計がはめられていた。男は思わず吹き出しそう

になった。


「ほら、もう少しだ」

 
老女が出来るだけ自分の目と腕時計との距離をとろうと、左腕をさらに斜め上方に差し上げ

ながら言った。


「賑やかになるんですね?」

「ああ、賑やかになる。向こうの方からね」

 
そう言って老女は、黄色い滑り台の向こうにある、三段ほどの階段になっている入り口の方

に視線を向けた。


 
しばらく二人が黙って待ち構えていると、多くの子供たちの交じり合った喚声が聞こえ始め、

ほどなく先生らしい若い女性に続いて十二、三人ほどの幼子たちが列をなして階段を降りてき

た。隊列の最後のところにも若い女性と年配の女性が付いていた。


「保育園?」

「そう、少し行ったところに幼稚園があるんだよ」

 
園児たちは四、五歳で、みな水色の上っ張りを着、運動会で被るような青い帽子を頭にのせ

て白いゴム紐を顎に掛けている。先導していた先生が人数を数え、それが終わるのを待ちかね

たように、三人ほどの園児が二人の座るベンチの方へ駆けてきた。


「おばあさん、この人だあれ?」

 一人の男の子が声を掛けると、すかさずもう一人の男の子が

「カレシ?」

 と続けた。年老いた女が笑い出すと、あとからやってきた先導役の先生も笑いながら、

「こら!」
と言って、男の子の頭にげんこつを落とす振りをした。すると別の女の子が

「じゃあ、ムスコ?」

 と言い、これにはその先生も半信半疑の顔で年老いた女の顔を覗き込むようにした。

「こんな素敵なカレシやムスコがいたらいいけどね。あたしゃ一人もんさ」

「じゃあ、誰なのさ」

 最初の男の子が言うと、二番目の男の子が

「ただの男?」

 と続け、先生にまたげんこつを落とされた。

「そう、ただの男。ほんのちょっと前におばあさんと知り合いになったんだよ」

 男が言うと、先生は

「さあ行くわよ」


 と言って、リヤカーの方へ子供たちを引き連れて行った。

 
他の園児たちや先生たちも、二人に挨拶したり、野菜見せてと口々に声を掛けたりしながら

リヤカーの周りに集まっていった。園児たちは、かわるがわる鈴をチリンチリン鳴らした。


「やっぱりお客が群がったじゃないですか」

 男が少し口元をほころばせながら言うと、

「そう言えば確かにそうだねえ」

 老女は嬉しそうに答えた。

「キャベツ三個もらうわね」

 先生がこちらに向かって言うと、一人の女の子が

「三個だから三百円入れるからね」

 と、さも大事な役を負ったといったきつい顔つきで言った。

「おばあさん、チューリップ三本いいかしら?」

 年配の先生が言うと、年老いた女は

「何本でもお好きなだけどうぞ」

 と答えた。

「じゃ六本もらってもいいかなあ」

「先生欲張り」

「六本あれば、お部屋に二本ずつかざれるでしょ」

「二本とも赤がいいな」

「カモメのお部屋は赤色と黄色一本ずつがいい」

 一時リヤカーの周りは賑やかだったが、やがて全員が公園の中央に集まった。

「何が始まるんです?」

「まあ見ていてごらんよ」

 二人が見ていると、一人の先生が棒切れで直径七、八メートルほどの円を描き、その中に子供た

ちが入った。三人の先生は適当な間隔で円の外側に立ち、バレーボールほどの大きさの白い柔ら

かそうなボールを転がし始めた。


 最初のうちは転がすボールも緩く、全員キャーキャー言いながら逃げていたが、何回目かに一人

の男の子の足に当たった。その子はずっと他の男の子に手を引かれていて、ボールの行方を見よ

うとはしていなかった。


「タツ君アウト」

「タツ君外」

 みんなに言われて、タツ君は外に出た。先生に促されて一度だけボールを転がしたが、タツ君は

その後は先ほど円を描くのに使われた棒切れで地面をつついていた。


 転がるボールのスピードが次第に速くなり、一人、二人と円の外の人数が増えていった。アウト

になった子供たちの転がすボールは容赦がなく、さらに当てられる子供が増えて三人が残った。


「カレシ?の男の子がまだ残っていますよ」

 男が年老いた女の方に顔を向けて声を掛けたが、老女は別の方を見たままでそれには答えなかっ

た。それから、不意に独り言のように呟いた。


「生まれつきさ」

 老女の視線の先は、円から少し離れたところで地面をつついているタツ君だった。

「生まれつき?」

「そう、あの黒い靴下をはいた男の子だってそう、あそこで先生にくっついている女の子だってそ

う」


 まだ当てられずに残っている三人の中の、長い黒い靴下をはいた男の子は、足もすらっと長く、

見るからに俊敏そうだった。そして、円の向こう側では、小柄で色白の女の子が年配の先生の腰に

抱きついていた。


 男は一瞬何が?と戸惑ったが、タツ君と、靴下の男の子と、抱きついている女の子を順に見た後、

頷くように首を縦に振り、


「そう、ぼくだってそうです」

 と言うと、老女は

「あたしだってさ」

 と言った。

 最後に黒い靴下の男の子が残り、一人の先生が地面すれすれのライナー性のボールを投げてやっと

アウトにした。その男の子は


「反則だ、ずるいよ」

 と文句を言いながらも、最後まで残ったことに満足そうで、あっさり引き下がった。

 もう一度ゲームが繰り返されたが、タツ君は相変わらず円から離れたところで地面をつつき、黒

い靴下の男の子がまた最後まで残った。その後、自由に遊ぶ時間が与えられて、園児たちはてんで

に遊び始めた。

 男と年老いた女は、公園のあちこちで目まぐるしく動き回る園児達を目で追いかけていた。タツ

君の傍では一人の若い先生がしゃがみ込み、時折声を掛けていた。


「この近くにお知り合いでも?」

 老女が言った。

「いえ、あとであそこへちょっと」

 男は民家の向こうに見える白い大きな建物を指差して言った。

「大学病院?」

 老女は少し驚いたように聞いた。

「はい、検査がありまして」

「そう、・・・」

 老女はそれ以上は聞こうとはしなかった。そして、しばらくしてからそっと囁いた。

「上手くいくといいねえ」

「はい、ありがとうございます」


 二人はまた少しの間、無言のままで子供たちの遊ぶ様子を眺めていた。

「おばあさんはお元気そうですね」

 男が年老いた女の方に顔を向けて声を掛けると、老女は一瞬嬉しそうな表情を浮かべたが、すぐに

神妙な顔つきになって言った。


「ああ、今はね。でもいつ急にポックリいっちまうことやら」

「そんなこと・・・」

 男は少し慌てたように言った。すると老女は穏やかな口調で続けた。

「一人いっちまうっていうのは、寂しいものさねえ」

「おばあさん、一人もんって、お一人で暮らしているんですか?」

「情けない話だけど、あたしゃ男運が悪かったんだねえ。最初の亭主とは一年も続かなかった。二番

目の亭主はさんざ苦労かけさせておきながら、早々にいっちまったよ、子供一人もつくれずにね。お

かげであたしゃずっと一人。もう一人で暮らしている人生の方が長いんだから」


「でも、おばあさんはずいぶん幸せそうに見えますよ」

「亭主はだめだったけど、いい人にいっぱい恵まれたからね」

「いい人といっぱい出会ったんですね。それはいい人生ですね」

 年老いた女は、『いい人生だったか』ともらすように口にし、一息ついてから言った。

「二度と帰れない娑婆だからさ、この先一日でも長く生きたいものさねえ」

「はい」

 男は二度、三度首をゆっくり縦に振りながら相槌を打った

「けど・・・、人生倒れたら一巻の終りさ」

 男ははっとした。返す言葉を見つけようとはせずに、声に出さずに呟いた。――人生倒れたら一巻の

終わり――か。そして、何度か繰り返した。人生倒れたら一巻の終わり・・・。


 やがて男は立ち上がって言った。

「そろそろ行くことにします」

「そうかね。火と金のこの時間にここへ来れば、子供たちに会えるからね」

「おばあさんにもね」

 年老いた女は嬉しそうに頷いてニコッと笑った。

 男は老女に背を向けて歩き始めた。そして、リヤカーの脇まで来ると立ち止まって言った。

「一本いいですか?」

 男はポケットから百円玉を一枚取り出し、荷台の縁にくくり付けられた貯金箱のようなものに入れた。

「ああ、それはサービスだから」

 老女が腰を浮かせ、左手に持った手ぬぐいを振りながら大きな声で言った。男はそれに答えるように、

リヤカーの引き手に吊るされた鈴を軽く指ではじいた。鈴が小さくチリンと鳴り、近くにいた園児達が

何人か振り向いた。男は年老いた女と園児達に手を振ると、入り口の方に向かってゆっくりと歩いてい

った。


 一人の園児が男の方を指差して、「チューリップ!」と叫んだ。立ち去っていく男の右肩のあたりで、

赤いチューリップが小さく揺れていた。



                                                  

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