『 てんとう虫 』


 バルコニーからなんとは無しに見下ろしていると、地上を行き交う人たちが蟻んこのよう

に見え、自分も蟻んこのように思えて、ふと旅に出たくなった。一人旅なんて経験もないし、

考えたこともないのに、どうしてそう感じたのか自分でもよく分からない。

 部屋に戻り、戸に手を掛けると、てかてか黒く輝いてまん丸の、ブラウスのボタンのよう

なものが窓ガラスに張り付いていた。顔を近づけてよく見ると、てんとう虫だ。左右に赤黒い、

本体の色のせいで目立たないけれど、見事に対称性を保持した幾何学模様が描かれてい

る。

 視界の焦点を窓ガラスからはるか遠くにずらすと、街並みが途切れたあたりの、家がぽ

つんぽつんと点在するあたりに、黄に色づいた畑が見える。

「お前の暮らす場所はあっちのほうだろ」声を掛けると、まん丸の体のてっぺんのあたりで、

細いヒゲのようなものが小さく震えた。

「ここは十四階の部屋だ。何かにくっついてきてしまったの、それとも自分で?」



 電車を降りて改札を抜けると、そこは小さな待合所になっていて、旅を終えて帰路に着

く人たちと、たった今降り立った人たちとで一時ごった返した。私はそうした人々の間を縫

って足早に外へ出る。駅前の ロータリーの中央には、観光客には充分すぎるくらいのバ

スやハイヤーがたむろし、運転手たちがあちこちで談笑している。八年前に来たときには、

確かあのあたりに丸い植え込みがあり、その縁に看板が立てられていたはずだけど。は

っぴを着たおじさんたちに声を掛けられるのを避けるようにして、右手に見える商店街を目

指す。そこはどのバスもハイヤーもパチンコ台のはずれ玉のように吸い込まれていく。温

泉場を目差す道筋の始まりなのだ。両側が幟やらなにやらで飾り立てられていて、物語

への入り口のようにも見える。

 商店街は一、二軒みやげ物店があるだけで、その続きはどの町とも変わらない店が並

び、日常的な町人達とすれちがう。商店街の通りは直に尽き、突き当りを右に曲がるとそ

の場所はすぐに見つかった。ほんの十メートル足らずの一角だがコンクリの柱が並び、格

闘技のリングのように太いロープが四本張られている。柵の向こうは深緑のスペードの形

をした葉が密生し、今は忘れられた存在の桜の木が数本あって、その先に錆びたレール

が伸びている。

『あ、あんなところにお花が』あの時、バスの窓から私が見つけた。母もすぐに気が付いて、

『あら、ほんと、百合ね。誰が、・・・』と、そこで口ごもり、その旅行の間ずっと私の胸にひ

っかかった。『誰が、あそこに・・・』なのか、それとも『誰が、あそこで・・・』なのか。

 ちょうど真ん中あたりにある柱に、竹を輪切りにした一輪挿しが麻ひもで結わきつけられ、

ピンク色の花が一輪活けられていた。私はロープに手を掛け、今乗ってきた電車がまだ

止まったままの駅の方と、目の前の一輪の花とを交互に眺めた、『誰が・・・』なのか。そ

して何気なく振り返ると、道の向こう側に小さな花屋があって、店先に老女がちょこんと椅

子に腰掛けてこちらを見ていた。私は道を渡り、店の前まで行って小さく頭を下げた。

「こんにちわ。あのお花、おばさんが?」

「おばさんだなんて、お民ばあさんだよ」

 お民さんは立ち上がると私の肩ほどしかなかく、目元や口の周りの皺が笑ったせいで

一段と深まった。

「八年前にもありました、百合の花が」お民さんの笑顔に思い切って続けた「何かあった

のですか、あの場所で?」

「ほう、八年前に来られた、ご旅行で?」

「はい、両親と温泉場へ。バスでここを通りかかって見つけたんです」

 お民さんは私を案内するように奥へ誘い、上がり框に座布団を二つ並べると、奥へ入っ

ていった。店の土間は片側に大きな観葉の鉢物が並び、反対側はひな壇になっていて、

ポットに入れられた小さな花が並んでいる。切花は申し訳程度に、入り口の内と外のあた

りで三、四個のバケツに入れられていた。

「バスの時間は?」

 お民さんが麦茶を差し出しながら言った。

「特に予定のバスはありません、時間は大丈夫です」

 私には時間はいくらもあった。

「そう、それじゃ話そうかね」そう言ってお民さんは話し始めた。

「むかーし昔の話だ」まるで子供に昔話でも聞かせるような調子で。

「あるとき男の子があの場所に姿を見せるようになってな、そう、十歳くらいだったか。来る

日も来る日も『ポッポーきた、ポッポーきた』って鉄条網を揺するんだ、つんつるてんの寝巻

きにすり減った大人の下駄っぱきで。誰もが思ったさ、あの子は電車が好きで、ああして

毎日飽きもせずにやって来るんだって。わたしだってそう思ったさ、最初はな。子どもたち

が、『ポッポーきた、ポッポーきたの電車小僧、電車小僧』って囃したりするもんだから、近

所の人たちや通りがかりの人たちぁみな余計にそう思ったさ。

 子供って言やあ悪ガキもいてな、石をぶっつけたり、棒の先に馬糞くっつけて投げつけ

たりしてな。わたしゃ何度も箒もって追っ払ったものさ。男の子はな、何言われても何され

ても、言い返さないし仕返ししようなんてしないで、ただ表情変えずに振り返るだけさ。一

度なあ、まったく情け無いことにうちの倅が混じってたことがあってな、わたしゃもう本気で

怒ったよ。胸ぐら掴んで壁に押し付けて『そんなことする子はもう母ちゃんの子じゃねえ』っ

て。倅が大泣きするのを他の連中も見てて、その後はやらなくなったさ、少なくともわたし

の前ではな。それでな、あるときふと思い当たったんだよ、あの子は電車が好きでポッポ

ー言ってるんじゃないってな。何しろ毎日必ずわたしゃあの子を見てたんだから。あの子は

な、機関車に向かって叫んでるんだって。そうしたらピンときた。六年前の夏、七月二十八

日に起きた事故のときの子だって」

 そこで一息入れると、お民さんは体を捩るようにして柱時計を見上げた。

「時間は大丈夫なのかい?そう、それじゃ続けようかね。倅がお腹にいるときだった。その

日の明けがた、機関車の警笛が忙しく鳴って、キッキーって車輪の軋む音がして、貨車が

ガチャガチャぶつかり合った。あわてて起き上がって部屋の窓を開けると、夜は明けていた

けど靄ってて何も見えない。そのうちに人の怒鳴り合うような声がし始めた。これは何かあ

ったってんであの柵のところへ行ったら、だいぶ先の方にぼんやりと機関車らしい黒いもの

が見えて、その近くで人がわさわさ動いていて、・・・。若い女が機関車に轢かれて死んで

な、線路の脇で男の子が泣いてたということだ。あとから知れた機関士の話では、靄の中

で急に黒い塊に気が付いて、警笛を鳴らしてブレーキを掛けたんだけど間に合わなかった。

それでもって、ぶつかる寸前に小さな塊が線路の外へ飛び出たんだと。それが男の子で、

頭を打ってはいたけど命は助かった。あれから六年たって、どういうきっかけかは知れない

けど、あそこに姿を見せるようになったんだよ。

 それで機関車を見つけては『ポッポーきた、ポッポーきた』って叫ぶんだ、鉄条網を揺さぶ

ってね。あの子は母ちゃんに教えようとしてるんだよ、ポッポきたよー、ポッポきたよーって、

母ちゃんはもういないのに、必死に教えようとしてるんだよ」

 お民さんの言葉がそこで詰まった。顔を覗くと、目の縁の皺に涙が滲み込んでいた。

「まあ確かにあの子は遅れがあったさ。生まれついてのものか事故で頭を打ったせいかは

分からないけどね。でも、ひょっとするとあの子は心の中で、許して許してって叫んでたの

かも知れないね、お母さんだけ死んでしまったことを・・・。私にゃ分かんない」

 お民さんは両方の手の甲であふれそうになる涙をぬぐった。

「おお、ごめんよ、・・・。まだ、続くよ、いいかね?秋になって寒くなり始めても男の子は寝

巻き一枚で素足のままだ。気にはなったけど仕方ない。ある日思い立ってな、声を掛けて

みようかって、売れ残りの花を一本持って。返事はなくて表情もなかったさ。けど、百合の

花は受け取って両手でしっかり胸の前に抱いたんだよ。わたしゃ嬉しくなって、それからと

いうもの姿を見る度に花を持って行ったよ。そしてな、あるとき、あの子に感付かれないよう

に後をつけてみたんだ。そこの大橋を渡って、温泉場の方に折れてすぐのところを山の方

へ上がって行った。そしてお茶畑のはずれにぽつんとある一軒家に入っていった。傾きか

けたような小さな家で、玄関戸の上の方の透きガラスから少しだけ中が見えてな、薄暗い

裸電球が下がってて、お婆さんらしい姿がチラッと見えた。そして玄関横の縁側の前に小

さな庭があって、片隅に墓石が幾つか並んでてな、一番手前の新しいのが、六年前に亡く

なった母親のものに違いない、わたしがあげた花が何本か供えられてた。

 それからしばらくして、あの子がぷっつりと姿を見せなくなったんだよ。寒くなってお婆さん

に止められたか、具合でも悪くなったかなって思った。二週間経っても来なかった。とうとう

わたしゃ気になって、男の子の家へ行ってみたのさ。 家はひっそりしていて、でも裸電球

は点いてた。嫌な予感がしてたんで勇気が要ったけど、思い切って墓のある庭の方を見た

らさ、小さな墓石が一個増えてたんだよ、母親のに寄り添うようにしてね。もう涙が溢れて、

恐る恐る近づいてみた。石には何も彫ってなかったけど脇に木の札が添えてあって、『杉村

健太』としてあった。わたしゃ手を合わせておいおい泣きながら帰ってきたよ」

 お民さんの話しが途切れた。そしてお民さんは脇にあった手ぬぐいに手を伸ばした。

「お民さんは、その後もずっとお花をお供えしてあげてるんですね?健太さんに」

 私の声も震えた。お民さんが収まるのを黙って待とうと思った。

「実はね、もう一つ話があるんだよ。ところで、あなたお名前は?そう、いいお名前ね。ミユ

ウさんは初めてのお方なのにこんなに話して、でもあなたが素敵な娘さんだから話したくな

るんだね。迷惑でなきゃ聞いとくれね。

 あの七月二十八日、来年の夏でちょうど五十年になるけど、このちっぽけな町に大きな出

来事が二つ重なったんだよ。わたしの旦那は消防士でね、あの晩は宿直の当番だったん

だけど、ちょうど帰れるはずの時間に事故の現場に駆けつるはめになってさ。一時間くらい

したころ、あそこの柵のところへ来て『水を頼む!』ってわたしを呼んだんだ。『飲む水?』っ

てきくと『ああ、薬缶で頼む』って。水くらい駅舎へ行けばいいはずなのに、わたしの顔と子

供が入ってるおなかを見たかったんだね」お民さんは涙の乾いた目を少しだけ綻ばせた。

「『まだかかるの?』って聞くと、『もう少しな』って言って汗と疲れでだらしなくなった顔でニ

ヤって笑ったの。それが旦那の顔を見る最後になったの。あのとき薬缶に氷を入れてあげ

りゃよかったって、旦那のことを思い出す度に氷のことが浮かぶし、氷を見る度にニヤって

笑った顔が浮かぶのよ。あのとき冷蔵庫の氷が豆腐くらいの大きさしかなくてさ、姑に断る

のが億劫だったんだ。口をききたくないときだったもんでね」

 お民さんは私のことを忘れたかのようにしばらく店先の方へ目を向けていた。やがて我に

返って続けた。

「ミユウさんはもうお年頃のようだから話すけどね、旦那が何故ニヤってしたか。寝ずの番で

朝帰ってくると、風呂に入って朝ご飯食べて、そうすると姑がわたしに言うの、『タミエさんも

少し休んだら』って。それはわたしのためでなくて息子のため」

 そう言うとお民さんは、私の方には顔を向けずに愉快そうに笑った。不意を討たれて戸惑

いながらも私も思わず笑った。

「水だけの薬缶と湯飲みを旦那に渡してものの五分も経たないうちに半鐘が鳴り出したの。

今でもよく覚えているけどとにかく尋常でない叩き方でさ、よっぽどのことが起きたってこと

が一瞬にして町中に響き渡った。『ガン・ガーン・ガン・ガーン・ガン・ガン』ってね。これは川

向こうという合図さ。大橋に出ると上流の岸近くにある日赤の建物から真っ赤な火が吹き出

してて、真っ黒な煙が渦を巻いてた。見る見るうちに火も煙も膨れていって、人の力で消せ

るんだろうかって恐ろしくなった。あれはこの町の歴史に残る大火だった。逃げ遅れた患者

さんが二人亡くなり、消防士が一人死んだの。それがわたしの旦那。旦那は屈強さを自慢

にしててね、『どんな火にも俺は負けない』なんてバカなことをいつも口にしてて、『おなかの

赤ん坊が男の子だったら俺が鍛えて俺みたいな立派な消防士に育てる』なんてことも繰り

返し言ってた。なんてことはない、あれほどの大火を経験したことがなかったってことなのね。

町の人たちからは勿論、全国版の新聞でも英雄扱いされて、旦那のおかげで助かったとい

う人が何人も御礼を言いに来てくれたさ、花屋と知らずに花を持ってね。実際のところは地

獄のような火の中でいったいどれだけのことをしたんだか。確かに美談に仕立て上げられた

おかげで、励ましにはなったけど、あの人のばかげた一途さのおかげで倅は父無し子にな

ってしまったし、その後縁の切れない姑と三人だけで暮らす羽目になってしまったのさ、何

十年も」


 お民さんと消防士さんの息子さんはやはり消防士になったのだという。体は父親に似て頑

丈だけど、頭の中味は幸いお民さんに似たそうだ。三人暮らしの最後の方、お姑さんが亡く

なる少し前にお民さんに言ったのだそうだ、『もしいい人がいたら一緒になったら』。お民さん

は一人部屋で腹の底から唸り声を上げて泣いたそうだ。そのときお民さんは五十になる少し

前、人生を振り返らされたのだ。

 私は一輪挿しの近くのロープにつかまりながら駅の構内を眺めた。昔は線路が五本も六本

も敷かれ、その向こうには多くの倉庫が連なり、何十もの貨車を引いた機関車が日に数度

出入りしたという。馬が荷車を引き、道のあちこちに馬の落し物が平気で残されていて、私な

ど歌でしか知らない蹄鉄を打つ鍛冶屋もあったそうだ。大橋は何十年も昔の大台風で流され、

立派な鉄の橋となって生まれ変わったということだ。

 最後にお民さんが語ったこと、『あの子は母親に生かされたのだ』。健太さんはあの時自分

から母親を振り切って飛び出したのではない、母親に投げ出されたのだ、『お前は生きろ』と。

お民さんはいつの時点で、どうしてそう思うようになったかは語ろうとしなかった。私も聞かな

かった。お民さんはあの場所でずっと母子のことを思い巡らせて、そう考えたのだろう。私なん

かには勿論何も分かりようはずがない、どういう事情で健太さんのお母さんは命を絶とうとした

のか、健太さんを道連れに。そして最後の瞬間に健太さんを生かしたのか。

 振り返るとお民さんがこちらを見て笑っている。そうだよね、お民さん。お花屋さんの花には

目を呉れなくても、この一輪にはみんな目を留めるんだ。お民さんは、日がな一日あそこにあ

あして座って、行き交う人たちをニコニコしながら眺めては、あの人は一体どんな人生を歩んで

るのかななんて、勝手に想像して楽しんでいるのだろう。美優という娘のまだ駆け出しの人生

はどう想像してるのかな。

 私は、今もお民さんが暮らし、そしてかつては消防士さんが健太さんが、また健太さんのお

母さんが生きたこの町に、もうしばらくは自分の身を置いていたい気分だ。大橋を歩いて渡って

みよう。山の方へ上がっても茶畑も健太さんの家も墓も既になくなっているだろう。でも行って

みようと思う。そして気が済んだら駅前に引き返して、あの物語の入り口から私の旅を始める

のだ。


                                   

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