『テンガロンハット』 


  カウンターの一番端の所に、壁に半ば寄りかかるようにして、テンガロンハットの男が立っている。

その帽子は街中ではまず見かけることのない、西部劇のカウボーイがかぶるような格好良いやつで、

初老のその男には決してお似合いとは言えないが、かといって不思議なことに不自然でもない。男が

あまりにもさりげなく、ごくあたり前のように頭に載せているせいであろう。帽子に限らず、着るも

のでも靴でもアクセサリーでも、本人が自信たっぷりに良かれと思って身に着けると、一見突飛なも

のでも不似合いでなく見えてしまうものだ。男のテンガロンハットの場合もまさしく然りだ。

  そしてその初老の男は、カウンターの中にいる二人の女性を見るでもなく、カウンターに居並ぶ客た

ちを物色するでもなく――L字型のカウンターのその男の位置からは、カウンターの内も外も一番眺

めやすいはずだが――、ただ中空を見据えて終始穏やかに微笑んでいる。視線の方向は壁にずらっと

貼られた品書きあたりだが、焦点はそこまで届いていない。終始微笑えむその表情からは、精神か知

性に難点があるのか、何らかの分野で卓越した才能を持ち備えているのか、そのいずれかであろうと

思われるが――つまり並の人間には見えないのだが――、いくら注視してもそのどちらであるか読み

取ることができない。

「お客さん、お飲み物は何にします?」

  気がつくと、まだ何も注文していなかった。

「ちょっと待って」

  僕はそう言うと、慌ててカバンから財布を取り出し、目の前に置かれた小皿に千円札を二枚乗せた。

そして、テンガロンの男を見ながら少し大きめの声で、「生ビールお願い」と言った。その声に男が

こちらに顔を向けるかと期待したのだ。だが男はやはり中空に視線をただよわせたままだ。

  お揃いのえんじ色のエプロンをまとい、左胸のあたりの保育園児のような大きな名札に「かず子」、

「ミホ」と書かれた二人の女性のうちの、ミホさんがビールのジョッキを置いて小皿の千円札を一枚取

り、予め手に握ってきた六五〇円を入れた。なるほどこれがKさんから聞いていた方式だ。客が注文す

る度に、現物と引きかえに代金を小皿から差っ引いていく。小皿の軍資金が無くなったら、まだいたけ

れば補充すればよいし、後が続かなければ退散すればよい。勘定も無用だからいつ断りなしに消えても

差し支えない。

  ミホさんが目の前にきたのでつまみを注文する。ミホさんは注文を受けた酒の肴を探す時や飲み物を

見極めるのにちょっと戸惑った表情になるのだが、その瞬間に微かに色気を感じさせる。一方かず子さ

んは生真面目そうで、終始表情を変えずに調理や盛り付けに精を出している。そして客が入ってきたと

きだけ顔を上げ、わずかに顔をほころばす。

「しらすおろし」を注文すると、ミホさんはかず子さんに確認して、両手でぺけを返した。「焼きなす」

も「ししゃも」もぺけだ。何が出来るのと聞いたりしたら、ミホさんを戸惑わすことになりそうなので、

無難そうなものを探して、「冷奴」と「もろきゅう」と言うと、どちらもOKだった。ミホさんがその

二つを持ってきて小皿の小銭が三二〇円になった。

「お客さんこの店初めて?」

  隣の客が声を掛けてきた。幸いテンガロンハットの男が視界に収まる側だ。小柄な僕より一回りくらい

は若そうな男で、既に酒の入った赤い顔をし、いかにもパチンコ屋や競馬新聞が似合いそうな風貌だ。お

金の用意の仕方は抜かりが無かったのに、初めてと見抜かれた。

「どうして初めてって?」

「ミホちゃんは入ったばっかなんだからさ、最初からありそうなもの注文してあげなきゃ」

「出来ないものが多いの?」

「まあ五分の三は出来ないね」

  確かに五個注文してできたのは二つだった。

「常連は何が出来そうで何が出来そうでないか分るんだ」

「そうさ、この店はそういう店だから」

  赤面の前にあるのは、味噌がのったこんにゃくとさつま揚げだ。

「この店にはよく来るの?」

「ああ、昼からやってるからね、好きな時に来れるしさ」

「パチンコの合間に?」

「何で知ってるの?」

  赤面が少し驚いたように箸を口に入れたままこちらを見上げる。

「上がパチンコ屋だから、多分そうだろうと思って。勝ったら旨い酒、負けたらうっぷん晴らし」

「今日はどっちだと思う?」

「勝ち」

「当たり、なんなら奢ろうか?」

「いや、けっこう、もう自分のお金を出しちまったから」

  そんな最中も、僕の視界にはテンガロンが入ったままだ。テンガロンはあちこち視線を移しはするが

僕の顔は素通りで、相変わらずにこやかな顔をし、僕が見ている間飲むものも食べるものも一度も口に

してない。

「ところでさ、あそこの格好いい帽子の旦那はこの店によく来るの?」

「ああ、大抵いるよ」

「どういう人かなあ」

「どういう人かって、見れば分るだろう。気が変なのさ。みっともねえへんちょこりんな帽子なんぞか

ぶってさ、始終へらへらしちゃってさ」

「なんか話したことあるの?」

「いや、ないね。そう言えばあのへんちょこりん、口きいたとこ見たことないな。ひょっとして、しゃ

べれねえんじゃねえの?」

  ふと気がつくと、赤面の向こう隣のこれまた赤面ほどではないが赤い顔した男が我々のほうをちらち

ら見ている。赤面より少し若そうで四十前か。一見してピンときた。病み上がりか病みの最中で病み上

がりに近いといった感じだ。赤く染まって緩んでいいはずの目元がわずかながら緊張感を漂わせている。

あれは元ウツだ。ウツから立ち直る一つの手立てとしてこの店にかよっているに違いない。

  二人のやり取りが空いた隙に割り込んできた。

「旦那さん、へんちょこりんはあのおっさんだけじゃないよ。後ろを見てごらんよ、このパチンコオヤ

ジもだけどさ、俺も含めてこの店に来るのはへんちょこりんばかりさ」

  そう言うと、病み上がりは赤面を挟んで僕を手招きし、小さく囁いた。

「向こうにカップルがいるだろ、よく見てごらんよ、二人とも男だよ。その向こうの五、六人の集団、

ありゃ外国人でさ、何してるか分んない怪しい連中だよ」

  今まで気が付かなかったが、確かにテンガロンハットと反対側を振り向くと、すぐ向こうにぴったり

体を寄せ合った中年のカップルがいる。こちら側を向いた女役は、ひげを隠すための厚化粧とむさ苦し

いかつらで、一目でそれとわかる。その向こうでは女二人を含む六人が大きな声で訳の分からない言葉

を交わし笑い合っている。よく目にする集団的傍若無人というやつだ。

「お宅もへんちょこりんなの?」

  僕が笑いを交えて聞くと、病み上がりが言うより先に赤面の方が答えた。

「こいつはさあ、あの帽子に負けないくらい気が変なのよ。俺の隣の台が空くと必ずやってきてさ、自

分の玉が無くなると俺のほうを見てるんだ。やり難くてしょうがない。『どっか他の台でやったら』っ

て言うと、『凄い、見てるだけで面白い』なんて言いやがって、そのうちこの店まで付いて来るように

なっちまった。『あんた何で喰ってるの』って聞くと、『今休業中』ってそれしか言わねえんだ。俺?

俺は勿論パチンコで喰ってるのさ」

  赤面は顔を僕に近づけ、声を潜めて続けた。

「俺はね、プロさ。パチンコのプロ?それって何?って聞きてえんだろ。本当は内緒だけどな、教えて

やろうか。俺が台を見つけて出すとさ、ずっと居続けて稼いじまうだろ。他の客にやらせりゃいくらで

も掏れるのによ。だからよ、金を握らせてお引取りくださいって頭下げるのよ」

  すると、病み上がりが遠慮の無い声で言った。

「え、えー?面白くもねえ、って、椅子を蹴飛ばして出て行くの何度か見てるけどなあ」

  僕が笑うと、病み上がりも、それにつられて赤面も笑った。

  確かに、ウツにはパチンコがいいのだろう。日常にはあり得ない喜怒哀楽をいとも簡単に――それな

りの出費は必要だが――味わえる。不甲斐ない悔しさと、劇的な嬉しさとだ。病み上がりは賢い人間に

違いない。ちゃんと承知して通っているのだ。

「しかし、変わった店だねえ」

  どちらにともなく話しかける。「地下はこの店だけなの?地上一階がパチンコ屋でその上はマンショ

ン?地下の他のスペースは何になってるの?」

  病み上がりがお金の小皿とビール瓶を持って僕の右隣に移動してきた。もう一往復してコップとつま

みの載った皿も移動させた。勘定が無用なのでこういうのも問題無い訳だ。

「この地下はね、事務室だか倉庫だかがいくつかあってね、あとトイレ。この店は元事務室だったんだ

ろうね。それ以外のスペースは駐車場。事務室も倉庫も使われてないみたいだから、そこの階段を降り

てくるのはこの店に入るか、トイレがあることを知っている人だけ」

「倉庫に何かあるみたいだって言うぜ」

  赤面が意味ありげな顔で言う。

「何かって?」

「あとでトイレに行ったときにでも見るといいよ」

  赤面には上手く説明できないだろうから自分が、と言った調子で病み上がりが続けた。「店を出て階

段と反対側へ行くとすぐ突き当たりでね、右へ行くとトイレ。この店の並びだ。左へ行くとやっぱりこ

ちら側に事務室みたいのが二つ並んでる。つまりね、この店もトイレも事務室も部屋は全て通路のこち

ら側だ。通路の向こう側はずうっと壁で、壁の向こうは駐車場だよ」

  ここで、赤面が口を挟んだ。三人のやり取りに耳を傾けている者などいるはずが無いのに、声を潜め

た。

「全面壁なのによ、一番奥に鉄の扉があるんだよ。あの扉からすると多分倉庫さ。だけどあの倉庫は何

なんだ。駐車場にはそんなでっぱりは無いんだぜ」

  一瞬、赤面の向こうのテンガロンハットと目が合った。表情は読み取れなかったが、少なくとも中空

を見据えている時のニヤついた顔ではなかった。

  僕はテンガロンハットには全く関心が無ないような振りをして、赤面に顔を向けてしゃべった。

「鍵はかかってるんだろうね」

「一度トイレの帰りに向こうへ行ってさ、一つ目の部屋のドアを触ったけど鍵はかかってた。あたり前

だけどな。あそこの倉庫だって閉まってるさ」

  振り向いて『あんたは?』という顔をすると、病み上がりは、そんなことするかと言った顔で手を横

に振った。もう一度赤面の方へ顔を戻すときに、視線の先を素通りさせたが、テンガロンハットの顔は

上の方に向けられていた。

「まさか扉だけっていうことはないだろうにね」

  僕が言うと、後ろで病み上がりが自信ありげな口調で言った。

「あれはさ、後から駐車場が作られたときに倉庫が取っ払われて、扉だけ残されたんだよ」

「それじゃ、扉を開けたら駐車場じゃないの?だったら駐車場への出入り口ということで、全然問題

無いじゃない」

  赤面がしたり顔で言う。

「駐車場側には扉が無いんだよ」

  僕は「ええ?」と驚いた風を装ったが、腹の中では『大した話じゃない』と思ったので、「じゃあ、

後でトイレに行った帰りにでも迷った振りして様子を見てくるかな」

  そう言って話を打ち切った。



 

 いやな
奴だなあ、あいつは。初めてだろうからこの店やこの俺に多少関心を示すのは構わない。だが、

さっきからずっと興味を持ちすぎだ。この店の良さが分かってない。いや、店の良さが分かるだけの知

恵がないということじゃない。逆だ、知恵など使わないでただ居るだけの店だということが分かってない。

みんな見てみろ。他の客たちだって店の女たちだってオーナーの俺だって。おっと、俺はオーナーさ、

この店のじゃないぜ、このビルのな。気も狂っちゃいないし、医者でも画家でも作家でもない。ただ金だ

けは持ってるさ、いやというほどな。

  かず子は俺の女房さ。ミホは俺の女だ。どうだ、二人ともこの店にぴったりじゃないか。お前の両隣だ

ってお前がけしかけなければ、ただ居て飲んでるだけだったんだ。あのカップルだって中国人たちだって。

誰も他の奴のことは気にしちゃいない。自分たちのことしか頭に無い。俺はこういう雰囲気が好きなのさ。

人はいる。けっこうワサワサしてやかましい。だけど自分で居られる。





  ちょうどその時、ドアが勢いよく開いて新たな客が入ってきた。

「お、おっ、こんなところに?」

  僕以外の客たちはこういうのに慣れているのか、あまり驚きもせず元のままだ。

  その男はテンガロンハットの隣に立った。横柄さと無神経さと世間知らずさで固まったような、いかに

も土地成金程度にしか見えない。でもひょっとすると、ちょっとしか会社の重役クラスか。

「トイレがあるって聞いたんだけど、ここはトイレじゃなさそうだな。まだ小便は我慢できそうだから一

杯もらうかな」

  ミホさんが小皿を示してお金を入れるようにと言う。男は財布から一万円札を二、三枚出して載せた。

  ミホさんが慌てて言う。

「ここは、せいぜい千円か二千円かです」

  男は「わかった、わかった」という調子で手を横に振った。そうして、コーナーの柱に結わきつけられ

た募金箱――何の募金か分からないが――を見つけると、皿に一枚を残して、残りをたたみねじ込んだ。

「また変な奴が来たぞ」

  病み上がりが言った。

「言ったろ、ここへ来るのはへんちょこりんばっかりだって」

  赤面が笑いながら言った。

  新参男がテンガロンハットに向かって声を掛けた。

「格好いいねえ、その帽子」

  あの口調からするとやはり会社の重役だ。よく見かける中味はともかく威勢だけで要領よく世の中のか

なり高いところに這い上がり居座るタイプだ。テンガロンハットはニヤッと笑ったが、直に正面に向き直

る。やはり口を利けないのかもしれない。人に向かって見せた作ったような笑い顔は、人を相手にする商

売ではない。絵描きか、物書きか。初めてコップを口に運ぶのを見た。酒か焼酎か。

「ミホちゃん。ビンビールとさ、いや、ビールはもう要らん。あとご飯はあるかな」

  重役が傍にいるのでもないミホさんに大声で叫んだ。和子さんが代わりに答えた。

「お茶漬けならできます」

「お茶漬けか。それじゃ、にぎりめしを頼む。中味は要らん。海苔も要らん。塩で握ったやつだ」



  俺がトイレに行けば、あいつもトイレに行く振りをして付いて来るにちがいない。そうして声を掛けて

くる。やたらな対応の仕方をすれば、馴れ馴れしくいろいろ聞いてくるだろう。全くいやな奴だ。この店

が気に入ったなんて頻繁に来るようになったりしたら、そして益々俺のほうへ近付いてきたりしたら。考え

ただけでもぞっとする。もしも付いて来るようなら、ここで・・・。消えてしまうか否かはあいつ次第だ。

あいつ自身の責任だ。





  ミホさんが皿にのせた白い三角のおにぎりを重役の前に差し出す。

「一三〇円頂きます」

  すると、重役は一万円札の載った小皿をミホさんの目の前に掲げて言った。「釣りは要らん」

  ミホさんが、「そんな」と言うと、重役は札をたたんで募金箱にねじ込んだ。

  テンガロンハットが席を立った。帰る風ではなさそうだ。トイレだろう。ドアの向こうに消えた影は階

段の方にではなく通路の方へ向かった。少し間をおいて僕は居場所を離れる。両側の二人には声を掛けな

い。二人も何も言ってこない。






  人の命なんてものは全く不可解なものさ。簡単であっけないものだったり、しぶとくしたたかだったり。

あの男は果たして俺の後を追い、トイレに居ないからとあちこち探し回り、そしてあの扉にたどり着くだ

ろうか。一歩踏み出すか、思いとどまるか、それは本人次第、本人の責任だ。死か生かなんて、そんなも

のさ。俺だって、六十年近く生きた人生で、死の側に行ってもおかしくないことは、何度かあった。七才

のとき底なし沼に落ちて、目の前に木の根が無ければ土左衛門になっていた。二十九才のときもう一瞬居

眠りから覚めるのが遅ければ、車ごと谷底に落ちていた。

  だけど、今こうして生きている・・・。





  トイレのドアを開けると・・・、誰も居なかった。小用の便器が二つと個室が一つある。個室が使用中に

なっていた。僕は長めの小をしている振りをして待ち受ける。個室が開いた。中から出てきたのは見知ら

ぬ男だった。店の客ではなさそうだ。はて?どうしたことか。テンガロンハットはどこへ消えたのか。男

が手を洗って出て行くまでの間も僕は小の前に立ち続けた。止む無くトイレから出ようとしたとき、口笛

の「舟歌」が聞こえてきた。さっきの新参男に違いない。ドアを少しだけ開けるとやはり重役で、その後

ろ姿が見えた。こちらへではなく反対方向へ向かっている。間違えたか。左側のドアを開けようとする。

開かない。二つ目のドアに手をかける。開かない。何か独り言を呟き、後ろを振り向く。鉄の扉がある。

男は扉を引こうとしたが動かない。そして今度は勢いよく押した。扉が開き、男の姿が消えた。「あ、あ

ー」と叫ぶような声が聞こえた。鉄の扉は重々しくガチャリと閉まり、その後は人の声も物音もしなかっ

た。

  何が起きたのか分からず、僕は恐る恐る扉のほうへ歩いていった。酒が入っていなかったら、僕は恐ら

くビルの外へ逃げ出していただろう。鉄の扉のノブに手を掛ける。簡単にくるっと回るが、扉は開かない。

少し強めに押しても開かない。あの男は扉を簡単に開け――内側へ――、そして姿を消した。「あ、あー」

という叫び声は次第に消え入るように聞こえた。あたかも奈落の底へ転落していくかのように。我が身の

終わりを訴えようとしているかのように。この世への決別を叫ぼうとしているかのように。




  「あ、あー」というかすかな叫び声と、あの扉が閉まる音が聞こえてきた。間違いなく一人の人間が消え

た。扉を開けたときは、向こう側も自分のいる側と同じように足元が確かか、ちゃんと確認しなくちゃいけ

ない。やたら怠れば、命を落としかねない。俺のせいじゃないからな。確かめもせずに一歩踏み出したあん

たのせいだからな。





  僕は店に引き返さずに階段を昇り地上に出る。当然だが、極ありふれた街並みの風景に入り込む。酔いの

せいではなく、たった今まで経過した時間と空間がまったく現実のものとは思えない。

  僕は今出てきた非現実的な階段の斜め向かいに二機並んだ自販機の間に、携帯を手にして入り込む。そし

て改めて目の前の五階建てのビルを見上げる。三、四、五階は居住用のマンション。二階は事務所風。一階

の地下へ降りる階段の左側は、今は電気が消えた不動産屋で、右側は駐輪場、これらの向こう側はパチンコ

屋だ。

  不動産屋の裏口のドアが開いて男が出てきた。あのテンガロンハットの男だ。黒いバッグを右脇に挟み、

今はこげ茶色のハンチングをかぶっている。チラチラッと左右に目をやり歩き出す。駅とは反対の繁華街が

失せていく方向だ。間違いなくあの男だ。体の大きさ、なよっとした体つき、若干前かがみの姿勢、歩き方。

僕は携帯を見る振りをしながら後をつける。




  人の死なんてものは全く不可解なものさ。一歩踏み出すだけで幕を閉じる。自らの意思で終わりにしたい

場合だって、たった一歩踏み出すだけ、それだけのことさ。いくら考え悩もうと迷おうと、一歩踏み出せば

終わり。その瞬間全てが消え、完全な無になる。死なんてそんなものさ。完璧な無。






  今度は絶対に見失うわけにはいかない。男はどこへ向かうのか。どんなことがあっても見届ける。あの男

は、単なる一風変わった男ではない。僕を意図的に抹殺しようとした。しかも自ら手を下すわけではないや

り方で。

  人通りの少ない薄暗い道になった。

  後ろから車が近付いてくる音がした。男は僕の十メートルほど先を歩いている。車の近付き方が異常だ。

僕は振り返る。猛烈な勢いで近付いてくる。運転席が見えた。ハンドルの上にあるはずの顔が無い。なおも

そのままの勢いで接近してくる。僕はビルの壁に張り付く。車が僕を掠めるように通過した。運転席で人が

前かがみになっていた。

  ガリガリ壁を擦る音がしたかと思ったとたん、ダンという重く鈍い音がし、とてつもなく大きな衝撃音が

辺り一帯に響き渡った。初めて耳にする凄まじい音だ。唯では済まない何かが起きた。前進を阻まれた車が

斜めになってこちら側の車線を塞ぎ、なおもタイヤを回し続けようとあがいている。電柱が車の前の部分の

右端に喰い込み少し傾いている。やがて車が静かになり、人が集まり始めたようだ。






  いったい何が起きた?俺はどうなったんだ。俺の体はどうした。宙を舞った・・・?何も見えないぞ。音

もしない。どこだ、ここは。声も出せそうも無いな。息は出来てる。手は動かせないし、足も動かない。体

はちゃんと付いてるのか・・・?

  そうか、わかったぞ。ここがあそこか。あの扉の向こう側・・・。

  なんだか眠くなってきたぞ。しかし変だなあ。俺は足を踏み出してなんかいないぜ。これは俺の責任なん

かじゃない。それでも俺は無になるのか?。完璧な無に。

  やっぱり不可解だなあ・・・。

  ますます眠くなってきた・・・、ダメだたまらなく眠い・・・、もう眠るしかない・・・。





  車は無残な姿に変わってしまっていたが、本来持っていたはずの静かな落ちつきを取り戻していた。車の

左側を回ると、ちらほら人が見えた。助手席の側から運転席を覗き込もうとしている者がいる。僕はそれ

は避けて前方に目を向ける。少し先に黒いバッグと頭の無いハンチングが転がっていて、そこからさらに七、

八メートルいったところに黒い塊があり、三人ほどが少し距離を置いて取り巻いている。

  僕は歩行者のように近付き、不自然な形をした人を――これが本当に人なのかと一瞬思ったが――チラッ

と見ると、そのまま歩行者のように通り過ぎた。



                                                

 

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