『ねずみ』



  小さなねずみがひょっこり現れた。少年は一瞬驚いたが、たちまち嬉しくなった。少年は普通のねずみは何度か

見たことがあるが、こんな小さなねずみを見るのは初めてだった。
大人の親指ほどしかない。とにかくかわいい。

薄暗い灯りの下で、つやつやした玉のように輝いて見えた。少年はねずみを脅かさないように、頭のてっぺんから

足先まで全てを硬直させ、息もできるだけ抑えて、子ねずみを見守った。ねずみは用心深く辺りをきょろきょろ見回

し、おぼつかない足取りでうろうろし始めた。鼻をぴくぴくさせ、そのせいで銀色のヒゲが小刻みに震えている。

  そして、少年が息苦しくなって息を少しずつ吐き出すと、ねずみは思ってもみなかった素早い身のこなしで、薪の

隙間に姿を消した。少年はやっとの思いで、一つ大きく深呼吸をした。懐中電灯でも持ってきて、床に這いつくばり、

薪の隙間を覗いてみたい衝動にかられたが、じっと我慢することにした。


  少年は釜に火を付け、ねずみが姿を消した隙間をちらちら見やりながら、いつも通り十分間ほど薪を勢い良く燃

やした。そして風呂場へ戻り、湯船の蓋で湯をかき混ぜて温度を確認すると、台所の母親の許へ走った。


「おかあさん、物置にねずみがいたよ。子どものねずみだ。小さくてとてもかわいかったよ」

  少年は、母親も「そうかい」とニコニコするものと思っていた。ところが母親は、

「やだねえ、大きくなったら大変だ。あっちこっち喰い荒されてしまうよ。お父さんに頼んで何とかしてもらわなくちゃ」

  と言った。少年は、慌てて、

「ああ、いいよ。ぼくが何とかするよ。ねずみ捕りでも仕掛けてさ」

  と言い返した。すると母親は、少年を疑う目で真面目な口調で言った。

「かわいがったりしたらだめだからね、いい?ねずみは大変なんだからね」

  少年は、全く予想もしなかった母親の態度や言い方に、言いようもなくがっかりした。そして、どうしたものか考え

た。『あの子ねずみを手なずけて、悪さをしないねずみにしよう。それなら、お母さんやお父さんも文句を言わないは

ずだ』

  少年は次の日、その日は風呂を沸かす日ではないけれど、昨日ねずみを見かけた時間に物置へ行った。ポケッ

トには母親に内緒でくすねた食パンを一枚忍ばせていた。

  少年はパンをひとかけら、昨日子ねずみが姿を消した辺りの薪から十センチほど離れたところに置き、残りのパン

をかじりながら待ち構えた。しばらくすると、隙間からひくひく小刻みに動くねずみの鼻先が見えた。少年は小躍りし

たい気持ちをぐっと抑え、手も口も動きを止めて見守った。ねずみは周りをキョロキョロ見回しながら、恐る恐るパン

に近づくと、ひょいとパンを両手で掴んで立ち上がり、口に咥えて、昨日と同じ素早さで帰っていった。一連のそうし

た動きが、昨日以上にかわいかった。少年は、口に出さないように『やったー』と心で叫び、音に出さないように手を

たたく振りをした。そして、また同じ場所にパンをひとかけら置いた。しかし、その後はしばらく待ったがねずみは姿

を見せなかった。少年は長居して母親に疑われないように、残念な気持ちを抑えて物置を出た。ポケットには子ね

ずみの三日分ほどの食料を残しておいた。

  そして次の日、この日も風呂を沸かす日ではないけれど、少年は母親に、ねずみ捕りを仕掛けるからと言って人参

のひとかけらをもらい、物置へ行った。予想通り、昨日置いたままにしたパンは消えていた。少年は『しめしめ』とほく

そえんだ。そして人参を歯でさらに小さく食いちぎって、パンの上におかずのように添えて、同じ場所に置いた。昨日

と同じくらいの待ち時間で、子ねずみが姿を見せた。ねずみはまず小さな人参のかけらを、放り込むように口に入れ、

さらに昨日と同じようにパンを口に咥えて戻っていった。少年の目には、子ねずみの慌て方が、一昨日より昨日のほ

うが、昨日より今日のほうが少なくなったと見てとれた。

  その翌日、この日は風呂を沸かす日で、少年は安心して物置でゆっくりすることができた。少年はパンのひとかけ

らをさらに三つにちぎって、いつもの場所に一個、そこから十センチ離したところとさらにもう十センチ離したところに一

個ずつ置いた。しばらくすると、ねずみが待っていたかのように――少年にはそう感じられた――姿を見せ、最初の

一個をいつものように咥えた。そして、少年が予期していたように、二個目を見つけそこへ行ったかと思うと、咥えてい

たかけらを口の中に押し込み、二個目を咥えた。あまりにも考えていた通りにことが展開するので、少年は心が躍る

ような気分になった。ねずみは三個目もそのようにして口に咥え、もう無いことを見て取ると、薪の隙間へ帰っていっ

た。

  少年は薪をくべながら考えた。最近少年の家で、ねずみががさごそ音を立てることはない。ということはこの子ねず

みはどこか別の場所で生まれて、ここへ迷い込んだに違いない。この先もっと成長したら、えさは毎日もらえたとして

も、ここにじっとしてないであっちこっち動き回るだろう。そうしたら親たちにも感付かれ、ねずみ捕りで捕まえられてし

まう。そしてあのねずみのように・・・。

  少年は、ねずみが動き回らないように、何かに入れようと考えた。そうだ、ねずみ小屋で飼えばいい。そう思いつく

と、少年はすぐにもねずみを捕まえないではいられなくなった。ねずみ小屋をどうやって作るか、毎日のえさをどうする

かは頭になかった。

  少年は脇の棚の、父親の大工道具やペンキの缶や角材が置かれた奥のほうからねずみ捕りを探し出した。バネ仕

掛けの口をこじ開けて、留め金を慎重に引っ掛ける。細い薪を隙間から差し込んで釣り針状のフックを軽く突っつくと、

驚くほど大きな音をたてて蓋は勢いよく閉まった。少年は再度セットしてからフックにパンのひとかけらを引っ掛け、子

ねずみの出入り口のすぐ前に置いた。

  少年はその晩寝床で、昼間は考えないようにして済ましたのに、いやなことを思い出してしまった。まだ小学生にな

るまえの五歳のときのことだった。あるとき、ねずみ捕りに黒くて大きくてグロテスクな――母がそういう言い方をした

――ねずみが掛かった。悪さをされていまいましく思っていたのだろう、父はニヤニヤしながら、水をいっぱい張ったバ

ケツにねずみが入ったねずみ捕りを沈めた。ねずみはしばらくの間、上に下に右に左に水中を駆けずり回り、針金の

間から鼻の先を必死で突き出した。いくらもがいても鼻先は水面には届かず、小さな泡をぷつぷつ出すと、やがて腹

を上にして目をむいたまま天井に張り付いて、動かなくなった。少年はその先、なんでこんなものを五歳の自分に見せ

たと、父親を恨んだ。元気に動き回っていたねずみが空気を吸えなくて死んだ。どんなに苦しい思いをしたかは、自分

で息を止めてみれば分かる。あのねずみは自分を見ていたかも知れない。そう思うと言いようもなく怖い。

  結局少年は、小屋のことやえさのことを考えることなく眠ってしまった。

  あくる日少年は、学校から帰るとすぐに物置へ行った。ねずみ捕りの中に子ねずみがいた。少年はついに子ねずみ

が自分のものになったと思った。もうどこへも行く心配はない、親たちに狙われる心配もない。少年は学校にいる間に

小屋のことと、えさのことを考えていた。小屋は、とりあえずは物置のみかん箱を使う。大工道具やガラクタが入った

箱をいくつか整理すれば一個ぐらい空くはずだ。問題は上に張る金網だが、その代わりに板や角材を少しずつ隙間を

空けて並べて、上から何かのせる。ただ、こんな子ねずみでも既に板をかじる力があるか気にはなる。できるだけ早い

うちになんとかしなければならない。えさは台所の生ごみや食パンだ。

  少年は子ねずみが入ったねずみ捕りの取っ手を持って、顔の前に掲げた。子ねずみは少年の方を見るでもなしに、

せわしくかごの中を走り回る。少年は空いたほうの手でポケットからパンのかけらを取り出し、親指と人差し指で

つまんで、隙間から差し入れた。指は中には入れてないつもりだったが、子ねずみの鼻先は隙間から外に出た。あっ

と思った瞬間、少年の人差し指の先にねずみの口が届いた。少年はかごを放り投げた。指先には五ミリほどの間隔

で二つの赤い点々が出来ており、見る間に赤い玉となって膨らんでいった。少年は指を思い切り振って忌まわしい血

を払い飛ばし、物置を飛び出ると、慌てて風呂場の木戸から家に入った。ねずみは怖い病気を持っているかもしれない

と聞いたことがある。少年は救急箱からオキシフルを出して念入りに消毒しさらに赤チンを塗った。

  少年は子ねずみに裏切られたと思った。こんな裏切られ方を経験するのは生まれて初めてだった。子ねずみが憎

らしくなった。何かをこれほどまでに憎らしいと思うのも初めてだった。

  次の日もその次の日も物置へ行くことはなかった。そしてその次の日、風呂を沸かすのに少年は物置へ行った。ね

ずみ捕りのかごが隅の暗がりの方に転がっている。次第に慣れてきた目で見ると、横になったかごの中に、小さな

黒っぽい塊がある。少年はもうそれを相手にはせず、いつも通り釜に火をつけた。そうして火が勢いよくなり薪を何本

かくべると、左足を伸ばしてかごを引き寄せた。少年は、かごの口をこじ開けて親指と人差し指で中のものを慎重に

つまみ出すと、その凍りついたぼろきれのような塊を振り子のように振って、燃え盛る火の中に放り込んだ。



                                                    

inserted by FC2 system