『人生の一日』



「お客さん、このお店初めて?」

  男はちょうどグラスを口元に寄せたところで、「ああ」と答える代わりにこっくりし、氷ごとウイスキーを口に流し込む。

「違うんだなあ、やっぱり」

  女はバッグから携帯を取り出しながら、独り言のように言う「お客さんみたいな人が来るところじゃないのよね」

「何が違うって?」

「商売だからね、ただやりゃあいいんだけど、どうもその気になれないのよね」

「何を?」

「何をって、決まってるじゃない、サービスをよ」

「やる気にならないんなら、やらなきゃいいさ」

「何言ってるの、ますますおかしなお客さんだなあ」

  女は『あきれた』というように、携帯を持たない方の掌を上にして、声を小さく低くして言う「サービスした証拠がないと、

商売上がったりなの」

「そんな業務用の台詞を言われても困るなあ」

  女はパチンと音を立てて携帯を折り、バッグに仕舞い込む。

「おじさん、なんでこんな店に来たの?」

「別に理由なんて無いよ、酔っ払いはそういうもんだよ」

「おじさん、酔ってなんかいないんじゃない?」

  男は空になったグラスを掲げて振ろうとする。女が慌ててその腕を引き下ろす。

「おじさん、もう帰ろ。出口へ歩いて行ってさ、『お客さんどうしました』って聞かれたら、『女の子が気に入らないから帰る』

って言って。『他の女の子を』って言われたら、『いや、もう帰る』って言うの。いい、毅然とした言い方で言うの。三千円で

済むはずよ」

「君はどうなる?」

「私も帰る、お腹が痛くなったからって」

「商売上がったりじゃないか」

「変なおじさん」

  女が商売のとは違う笑いをかすかに浮かべて囁く「ねえ、おじさん、二人で飲みに行こうよ。駅へ向かう次の信号で待ってて、

十分間。もしもおじさんがいなかったら、わたし諦めておとなしく帰る」。

  女が先に席を立ち、女の子たちが出入りするカーテンの向こうに消えたのを見て、男も立ち上がって出口へ向かう。若い男が

レジに入り、静かに穏やかな口調で声を掛ける。

「どうしました、お客さん」

  入り口で出迎えた男だ。目つきが薄黒い。男が店に入ってまだ十分とたっていない。口調とは裏腹の、相手が察するはずの

凄みを表情に滲ませる。男は「帰りたくなったんだよ」と女に教わった通りに毅然と言い、若い男に視線をぶつける。そして

表情を変えないまま、男に言われた額のお金を置いて外へ出る。時たま振り返っては誰も付けてこないのを確かめ、駅の方へ歩く。


  信号待ちの振りをして立ち続ける男を目掛けて、映画のワンシーンのように、女が派手に腕を振りながら走ってくる。

「やったね」男の右腕にしっかりと両腕を絡ませ、「おじさん、嬉しいな」と言い、さらに男の肩に頭を預けて「十三分かかった

からもういないと思ったよ。どうして待ったの」と息を弾ませながら続ける。

「君が変な女の子だから・・・、ほら、青だよ」

「ちょっと待って、ねえ、どうする、どこへ行きたい?」

「二人でだったら静かに飲めるところがいいな」

「じゃ、ホテルにしようか。風呂にも入れるし」

「ここは、プロの君に任せるよ」

  女が絡めた右手の指で男の二の腕をつねる。男が軽く笑い、女は両腕に力を込める。

「じゃあ、こっち」

  駅の方へは渡らずに、右手に伸びる緩やかな坂道を登る。通行人はなく、車が時折行き交う。少し行くと、道の両側にカップル

専用のホテルが乱立し、脇道に入った突き当り、女が指差す先に、赤れんが造りのけばけばしくないホテルがポツンと立っている。

両側が杉の木立ちで、この一角だけなら閑静なリゾート地を思わせる


「私がプロだったらどうする」

  女が冷蔵庫からビールの缶を二本取り出しながら言い、椅子に腰掛けて続ける「後になって『金おくれ』なんて言ったら?」

  店で見た顔からは想像できない笑みを含んでいる。

「そのときはそのときだ、言われた額のお金を払うさ」

「じゃあ、わたしが悪い女だったら」

  缶の栓を抜いて男に渡しながら「ホテルを出たところで、私と示し合わせた怖いお兄さんが待ち構えていたら?」

  笑みの分量が少し増える。

「そのときもそのときだ、話をつけるさ」

「怖がらないの?」

「怖いお兄さんと鉢合わせした経験が無いから、そのときになってみなけりゃ分からないよ」

  何口かビールを飲み、男が

「ところで、君は・・・」と言いかけると、

「ちょっと待った。君はどうもよくないな。『みちよ』って呼んで。柄には合わずかわいい名前でしょ。わたしって人間は好きじゃ

ないけど、名前は気に入ってるんだ。おじさんはおじさんでいいよね。おじさんっていう呼び方がぴったりだし、おじさんって

いう言い方が気に入ったんだ」

「ああ、悪くないよ。ところで、みちよさんは・・・」

「待った。みちよ、で」

「みちよは、なんでこんなおじさんに興味を持ったのかな。それとも単なるお金目当て?ひょっとすると怖いお兄さんとグルで。

そんなにお金を持ってる男には見えないはずだけどな」

  女は飲みかけの缶をコツンとテーブルに置く。

「おじさん、風呂入ろ」

  女は立ち上がり、風呂場へ向かいながら「ところで、おじさん、あれはしたい?」と言って振り返る。

「あれ?ああ、いや、いいんだ。さっきの店に行く前に済ませたから」

「よかった、わたしも食傷気味なんだ。」

  女は笑いながらドアの向こうに消え、大声で言う。

「おじさんも入ってきてよ」

  男は冷蔵庫から缶ビールを取り出して椅子に腰掛ける。

『奇妙なことになったものだ。みちよはどういう娘なんだろう。二十は少し越えてそうだ。暗がりで最初に見たときは、陰気そうで、

女性の魅力がかけらも感じられなかった。それが、今は風呂で鼻唄をうたっている。どうして・・・』

「おじさん、早く来てよ」

  女の大きな声がガラス戸の向こうで響く。男はビールを二口ほど流し込み、風呂場へ向かう。

  中へ入ると、十分すぎる大きさの楕円形の湯船に女が仰向けに横たわり、まだ溜まりきっていない湯の上に立派な乳房が出たままだ。

女は大きなプレゼントを受け取ろうとするかのように両腕を差し出す。

「逆になろう」

  男が下になり、女をしっかり抱きとめる。

「じっと、このまま」

  女は両腕を男の首に巻き、顔を男の首筋に押し付けたままじっと動かず、しゃべろうともしない。いっぱいになった湯が縁から溢れ、

その音だけが浴室に響き続ける。男はなんとも心地よく、女が気が済むまでこのままでいようと思う。自身もずっと続くといいと思う。

「おじさん、こんないい気分生まれて初めて」

  女が顔を上げ、男ははっとする。女が全く別人のように美しいのだ。目が輝いているのは、涙が溢れているせいだけではない。

積もり積もった表情が洗い落とされ、上気した頬も鼻も口元もすべてが輝いている。男は思わず口にする。

「とってもきれいだよ」

  女は再び顔を埋める。

「人がこんなにもいいもんだと思えたの初めて」

「自分が?それともおじさんが?」

「両方」

  またしばらく流れ落ちる湯の音だけが響く。

「みちよは今まで男と付きあったことはないの」

「全然。男は嫌いなんだ。昔はいいなって思う子もいたけどね。今みたいな商売を点々と続けて、男は嫌いになる一方。だけど

生きてくにはこれしかないの。生きる分だけ男が嫌いになっていく」

  女が体を起こして湯を止める。一転して静かな空間に早変わりする。

「ところで、おじさん、女は好き?本当に好きになった人はいる?」

 男は両手をみちよの脇の下に当て、少し持ち上げるようにして言う。

「部屋でビールでも飲みながら話そうか」

「うん、そうしよう。それでまたじっとしたくなったら入ろ」


 女は何も身に付けずにベッドに潜り込み、男は新たな缶ビールを手にしてベッドの縁に腰掛ける。

「おじさん、独身?」

  女が小さく言い、男は黙ったまま飲み続ける。

「おじさんも早く横になってよ」

  男も裸のままベッドに入り、その左腕に女が両腕を絡ませる。

「好きになった女性は数え切れないほどいるよ。小さい頃から女の子は好きだよ」

  うなずくように、女の両腕に一瞬力がこもる。

「だけどね、本当に好きになった女性は一人だけだよ」

  そう言って、男はゆっくり静かに続ける「あれはね、一瞬の出来事だったよ。高校入試の合格発表のときのことだ。僕が自分の

番号を見つけてふと振り返ると、目の前に彼女が立っていた。その一人だけの女性だ。彼女は真剣な顔つきで掲示板を見上げ、

ほんの目と鼻の先の僕の視線には気付かない。そうして彼女が安堵の表情になって、僕の存在を意識した瞬間、二人の目が合ったんだ。

この一瞬、この一日が僕の人生の特別な一日になったんだよ」

  男は体を少し起こして、ビールに手を伸ばす。 

「これがたった一人だけ、本当に好きになった女性との出会いだよ。いや、出会いとは言えないかな。特別だったのは僕のほうだけで、

彼女にとってはただ目が合っただけということかも知れない。でも、ぶつかり合った僕の視線で、僕にとって特別な一瞬だということは、

彼女にも伝わったはずだよ」

  手にしたままのビールを一口流し込む。

「今まで人生五十数年生きてきて、こんな特別な出会いはこれ一度きりだよ。神様は人が生きた証に、誰にも一度だけこういう幸運を

与えてくれるのかと思ったりもしたよ――笑わないで――神様なんて持ち出すのはこのときだけだから。僕はこの幸運に恵まれたおかげで、

自分はこれほどまでに情熱的に女の人を好きになるのか、自分はこういう心を持ち合わせているのかと、思い知らされたんだよ。

  ということはね、あのときあんな出会いを経験しなかったら、そういう自分を知らないまま生きてきたかも知れないんだよ」

  男は絡まれた左腕で女に合図を送り、体を起こして缶ビールを飲み干す。

「五十数年生きてきて、そういう幸運に恵まれないアンラッキーな人もいるのかなあ」

「ああ、それはあると思うよ」

「それじゃ神様なんて関係無いじゃない、そんな不公平があるんだったら」

「そう、幸運な人、不運な人いろいろだろうけど、神様がなんてことにすれば、皆自分の人生を振り返って、ああ、自分にとっては

あれがそうかななんて考えるさ」

「おじさんは十五の春に経験したのか」

「そう、最も多感なときにね」

「私は二十数年生きてまだないよ」

「神様にお願いするといいよ、幸運な女でありますようにって」

  男はまた横になる。女は同じように腕を絡ませる。

「おじさん、その出会った女性とのこと話してくれる?」

  男は黙って天井を見つめる。そして、女のためにではない、勿論酔ったせいでもない、ただ自然に話したい気分になる。

「僕は今は独身だけど子供がいるよ、二人。その母親とは離婚したんだけど、十五で出会った彼女ではない。彼女とは大学を卒業して

社会人になる春に別れたんだ。彼女と出会ってからちょうど七年目のことだよ」

  男が一息入れると、女が抑えきれずに口をはさむ。

「おじさん、ごめん。七年間も付き合って、結婚しようということにはならなかったの?人生でたった一人の女性だったはずなのに」

「そうだね、いきなり一番肝心なところに話がいってしまったね」

  男は起き上がり、腰にタオルを巻いて冷蔵庫に向かう。

「みちよは要るかい?」

  と、声を掛ける。

「おじさんのを一口もらえればいい」

  女は体を捩るようにして起き上がり、軽く口をつけてすぐ横になる。

  男はベッドの縁に腰掛け、時折ビールを口に運び、やがて独り言のように語り始める。

「人生で一番特別な幸運に巡り会えたはずなのにね、自分でその幸運を手放してしまったんだよ。でもそれも仕方のないことでね、

原因ははっきりしているんだ。皮肉にも、僕があまりにも彼女のことを好きになりすぎた、ということなのさ――」

「男がね、本当に女の人を好きになると、傍にいるだけで十分すぎるくらい幸せでね、信じられないだろうけど、彼女の体を抱き寄せる

ことすら出来なくなってしまうんだよ――」

「そんなことを言ったら、大抵の男は笑い飛ばすけど、なんてことは無い、そんな輩は幸運に巡り会えてないというだけのことなんだよ、

そういう自分になるということを知らないだけなんだよ――」

「でもね、彼女は恐らく考えたんだね、私に対して何もしようとしないこの人は、私に女としての魅力を感じていないのかって――」

「なんとも馬鹿げた行き違いさ、何しろ僕は不器用な上に臆病者で、自分を上手く表現したり伝えたり出来なかったから――」


  ふと気がつくと、かすかな寝息が聞こえ、振り向くと、女は眠っている。男は静かに横になる。女の大きな胸を覆ったタオルが、

ゆったりたくましく上下動する。陰鬱でもなく輝いてもいない、女の自然の顔で眠っている。

  男は、『神様、この娘に幸運を与えてやってください、お願いしますよ』と呟き、自分はやっぱりちょっと酔ったかなと思う。そして、

今日という日は、特別なというほどではないけれど、後になって、人生の一日として拾い上げるに違いないと、弱まり始めた頭の片隅で

意識する。

  やがて男は、女に寄り添って眠りにつく。


                                               

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