『秋風』


 「熊木さん、面白いねえ。見てごらんなさいよ」

  車椅子の有田澄江が、窓の外を眺めながら声を掛けた。

「何がです、何が面白いんです?」

  入り口近くのテーブルで、熊木が薬の入ったバッグを覗き込みながら聞き返す。

「葉っぱよ、木の葉っぱ」

  窓のすぐ外にブナの大木がある。三階の窓からでは、てっぺんまで見えない。

木の高さは四階の屋上を越えている。

「さっきからねえ、今度はこの葉っぱ、今度こそこの葉っぱって目を付けるんだ

けど、なかなか当たらないのよ」

  風が一吹きするたびにブナの枝が揺れ、その度に夥しい数の葉が舞い落ちる。

「一度にあんなにたくさん落ちるのに、どうして当たらないのかしら」

「そうか、有田さん、風で落ちる葉っぱの当てっこしてたのか。それは面白そう

だねえ」

  熊木は薬と水の入ったコップを手にして、車椅子の脇に歩み寄る。

「有田さん、はい、お薬」

「ありがとう。ねえ、熊木さんもやってごらんなさいよ」

「よし、じゃあ一度やってみましょう。えーと、えーと、じゃあ僕はあの葉っぱ

だ」

  二人はしばらくブナの木を眺めていた。やがて小さな風が枝を揺るがせ、また夥

しい数の葉っぱが舞い散った。

「ほら、落ちた。当たりだ、当たり。有田さん、一発で当たりましたよ、僕の勝

ちだ」

  熊木が子供のようにはしゃいで言うと、澄江がむきになって言い返した。

「インチキ、インチキでしょ!だって熊木さんがどの葉っぱにしたか証拠がない

んだから」

「はっ、は、ばれましたか。有田さん鋭いなあ、今の勝負は取り消し。じゃあ、

僕は行きますからね。有田さん、頑張って当ててくださいね」

  熊木はそう言って、笑いながら澄江の居室を出ていった。そして廊下を歩いてい

くと、澄江の孫の佳代子と出会った。

「おばあさん、どうかしら?」

「元気ですよ。気分も快調みたい。今一人でゲームを楽しんでいましたよ」

「一人で?どんなゲーム?」

「まあ、行ってごらんなさい。単純なゲームだけどなかなか面白いですよ。ただ、

インチキ防止のルール作りが難しいかな?」

  熊木は小さく笑って立ち去った。佳代子が部屋へ入ると、澄江はやはり車椅子を

窓の方へ向けている。

「おばあちゃん、こんにちわ」

  澄江は窓の外に顔を向けたままだ。

「おばあちゃん、何してるの?」

  何も答えない。

「ほら、吹いてきた。落ちろ、落ちろ」

  風が吹き、枯葉が舞い散り、やがて収まる。

「ありゃー、まただめだ」

  佳代子はしばらくの間、黙って祖母と窓の外を見比べた。しかし何をしているの

か、何がだめなのかさっぱり分からない。『風で飛ばされる枯葉を見ているようだ

けど?』

  ようやく澄江が佳代子に気が付いて体を向けた。

「佳代ちゃん、久し振りね」

「おばあちゃん、何言ってるの、私一昨日も来たじゃない」

「あれ?富子が来てくれたと思ったけど」

「姉さんはずっと来てません。遠くにいるんだから。もう、せっかく会いに来ても

これなんだから。張り合いがない!」

  佳代子は憤慨した言い方をしながらも顔は笑っている。

「ところで、おばあちゃん。何一人で楽しんでたの?」

「あら、大変。お前が怒ったもんで、何してたか忘れちまったよ」

  佳代子は「もう、しょうがない」と言って、声を出して笑った。

「熊木さんが知ってるみたいだから、聞いといてあげる」

「そうか、熊木さんで思い出した。熊木さんがインチキしたんだよ」

  そう言って澄江は、何をしていたのか話した。

「私が何回やっても当たらないのにさあ、熊木さんが一度で当たるわけがない!ま

ったくインチキなんだから」

  澄江が本気で悔しがっている。佳代子は笑いながら「じゃあ私もやってみるか」

と言って、少しだけ窓を開けた。

「おばあちゃん、今日は暖かいね」

  夏の終わりまで無数の葉ですっかり遮られていた日差しが、今は隙間だらけとな

った枝を通り過ぎて、心地よい温もりを届ける。また風が吹き、木の枝が揺れて、

二人がいる辺りの温もりも揺れた。

  佳代子は窓から身を乗り出して下を見た。庭は何本かのブナの大木が撒き散らし

た落ち葉で、地面が土だったか芝だったかも分からないほどに、あたり一面が埋め

尽くされている。

「おばあちゃん、庭はもう茶色の海だよ」

「えっ、海だって?じゃあ、私たちは船に乗ってるのかい?」

  佳代子は吹出すように笑って、「海に木がはえますか?落ち葉がいっぱいで、ま

るで海のようだと言ったんです」と言い、祖母の肩にそっと手を置いた。かすかな

風が入ってきて、澄江の銀色に輝くほつれ毛が優しくなびいた。

「ああ、驚いた。確かに船にしちゃあ揺れてないものねえ」

  そう言って澄江は愉快そうに笑った。佳代子も笑った。そして、また風が吹いた。

「みんなどんどん落ちていくのに、何であの葉っぱはいつまでもしがみついてるん

だろ。潔くないんだから、まったく」

  澄江が独り言のように呟いた。一人ゲームがなかなか上がらずに、澄江が珍しく

イライラしている。そんな祖母の背を見ていて、佳代子はほほえましく思う。『怒

れ、怒れ!元気で何より』

  佳代子は、目の前に伸びている枝の一つの枯葉に目を据えた。



  あれは二週間前に来た時だったかな?――。熊木さんと話したときのことだ。

「おばあさんは海外旅行の経験はあるの?」

「とんでもない、海外旅行だなんて、全然」

「そう。おばあさん、大きな船に乗って、アメリカとヨーロッパへ行ったと話して

いたけど」

  最近おばあちゃんは、どうもそういうことが多くなった。海外どころか、大きな

船に乗ったことさえないはずなのに。この間来た時だって、ぽかぽか陽気だったか

ら、久し振りに車椅子を押して外に連れ出してあげようとしたら、『いいんだよ、

無理しなくても。毎日出歩いているんだから』って、真顔で言った。本当は誰も連

れ出していないのに。

  そして、熊木さんは続けて話した。

「おばあさんは幸せな人だねえ。ものを忘れる代わりに、やってないことまでやっ

たって思えるんだから。この間だって、自分は今高級ホテルにいるって言ってたよ。

僕のことなんか、ボーイだと思ったんじゃないかな」

  熊木さんが笑い、私も笑った。『ずいぶん老けたボーイだこと』

「人ってさ、いい思いしたら、『ああ、自分はいい思いしたな』って思い返せるか

ら幸せな気分になれるのにさ、それが思い出せなくなったら、何のためにいい思い

してるか分からなくなるよね。僕の母親なんかもその口でね、せっかくちょっとし

た小料理屋へ連れてって美味しいものご馳走してもさ、まあそのときは美味しい美

味しいって喜んで食べるんだけど、二、三日したらすっかり忘れてるんだから。お

店に行ったこともだよ。まったく、何のために高いお店で食べたんだって言いたく

なるよ」

  熊木さんは五十くらいだ。後頭部に地肌が丸く露出し、顔の左半分に五、六個小

さなしみがあって目の下は少したるんでいる。ボーイとはちょっと言い難い。『熊

木さんのお母さんも八十くらいかな?』

「私のおばあさんなんかね、いつ誰が会いに来てくれたかなんてすぐ忘れてしまう

みたい。この間なんかひどいの、私がトイレに行って戻ってきたら、『おお、よく

来たね』なんだから。ものの五分もたっていないというのによ」

  熊木さんはぷすっと吹出し、「それはひどい、僕はやっぱりボーイだ」と言って

さらに声を出して笑った。『あまり好きになれない中年の笑い方。熊木さん、そん

なに笑わないで欲しい』

  このあと、熊木さんは施設のお年寄りさんたちのことをいろいろ話した。

「○○さんはね、△△さんに会いたい、△△さんに会いたいって言い続けてるんだ

よ。友人なのか昔別れた初恋の相手なのか分からないけど、一途に思い続けてるん

だね。人に会いたいなんて、一番切なくて切実な思いだよね。恐らくこのままずっ

と思い続けて、心残りのままいってしまうんだろうね」

「○○さんはね、やたら怒りっぽくって、△△さんのクシャミが気に喰わないとか、

窓からの景色が木しかないとか、何もかもが不快に感じちゃうんだね。不満だらけ

の人生だったのかと思いきや、とんでもない。海外旅行だゴルフだって、やりたい

ことさんざんやってきたのにだよ。あれは気の毒だねえ」

「○○さんはね、いつもニコニコしていてね、何を話してもニコニコ顔で聞いてる

んだよ。自分からは何も話さないから、こっちが言ってることを分かってニコニコ

してるか分からないけどね。僕は○○さんのニコニコ顔が好きでね。いやなことが

あると○○さんのところへ行くんだよ。そうすると必ずあのニコニコ顔に会えるん

だよ」

  他の人には、私のおばあちゃんのことを「○○さんはね、物忘れがひどくてね、

そればかりかやってもいないことをやったつもりになれてね・・・」と話すのだろ

う。五十人のお年寄りがいれば、五十の「○○さんはね、・・・」がある。しかも、

熊木さんがほんの数行で言い表してしまうような。

  私はそのときふと思った、『ここは人生の吹き溜まり?私が将来人生を閉じる頃

になってここにいるとしたら、(勿論その頃は熊木さんがいるわけはないだろうけ

ど)どんな「○○さんはね、・・・」になっているのかな?』




  佳代子が我にかえると、澄江は相変わらずブナの木を見つめている。佳代子は祖

母の顔を覗き込んだ。もうさっきのイライラはなさそうだ。ゲームはもうどうでも

よくなって、ただぼうっと目を向けているだけなのかも知れない。気が済むまでそ

っとこのままにしておいてあげようと思う。




  そういえばある作家が言っていたな、――何も読んだことのない作家だけど。

『自分は人生の最後に<いい人生だった>と振り返られるように人生を生きるん

だ』と。私もそう思う、想定外の突発的な事故死なんていう終わり方は除外すると

して。でも、今、現実的に人生の終わりを間近に控えたおばあちゃんやここにいる

人たちを見ていると、また考えてしまう。『自分の人生は・・・』なんて振り返ら

れるような人は、はたしてどれくらいいるだろう。『作家さん、あなただったら、

この現実を見てどう考えます?』

  また風が吹いた。小さくせわしく揺れる枝や、ゆったりおおらかに揺れる枝や様

々だ。
少し強く吹くと、大木までゆっくり体を揺らす。

『おばあちゃん、何考えてるの?また、ありもしないことを、勝手にあれは楽しか

ったなんて思っているんでしょ。若い頃、アイドルスターだった映画俳優と恋に落

ちたとか。いいわねえ』




  佳代子は、先ほど何とは無しに目を付けた枯葉を探した。相変わらず時折風が吹

き、無数の枝がてんでに揺れ、そのたびに数え切れないほどの枯葉が舞い散る。佳

代子はどうしても自分の枯葉を見つけられない。『もう、落ちてしまったのかな?』

  一番目を付けやすそうな、目の高さの枝を一つひとつ丹念に辿ってみるがだめだ。

『ゲーム終了かな?』

  しばらく風が収まり、全ての葉が動かなくなったあとに、佳代子が探していた辺

りで、一枚の枯葉が潔くきっぱりと落ちた。『あれにしておけばよかった』

  そして諦めかけたとき、一つの枝をじっと眺めていて、佳代子は見つけた。どの

枝にも、ここからでは針のようにしか見えない細い無数の枝が数センチほど伸びて

いて、その先に小さな、米粒よりももっと小さな白い粒々がついている。佳代子は

思わず車椅子の取っ手を握り、力を込めた。

「おばあちゃん、ほら、よく見て。新しい命が始まろうとしているよ」

  佳代子が視線を落とすと、澄江の白い頭が右の方に少し傾いている。佳代子は微

笑みながら年老いた祖母の顔を覗き込む。




                                   

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