『あきちゃん』 


 あきちゃんは自分のことを『あきちゃん』ていう。小さい頃そんな歌があったけど、あきちゃんの場合は三十を

超えている。「この伝票、あとであきちゃんに戻してね」、「あきちゃんね、携帯は持たないの」といった具合だ。

あきちゃんは二週間前にこの会社に入った。少し遠目で見ると、体付きといい丸い顔にクリクリの目といいキン

タロさんを連想してしまう、あれでおかっぱ頭にしたらなんて考えて。近くに寄ると目に比べて小さい鼻と口が

控えめに整っていて、お人形みたいだ。あきちゃんは人妻や子持ちのようには到底見えないが、現にそうだ。


 会社はホダカカートンと言って、シャレた名前だが早い話段ボール板を加工する段ボール屋だ。従業員は事

務員のあきちゃんを入れて五人。酒好き競馬好きのダンさん。後ろから見た頭の形があしたのジョーの丹下段

平に似ている。年齢は六十過ぎ。本好きのブンさん。昼休みはたいてい文庫本を読んでいる。四十半ばで独

身。苗字が氷川のマルくん。ボクより一つ下の二十二才で、段ボール業とは別枠の箱折りが専門。予定変更

に弱くて得意なことと不得手なことがちょっと極端だ。


 そしてボク。専門学校を出た後三年間バイトで繋いだが、半年前全くの偶然から運良くホダカに入社した。駅

前の立ち飲み屋であのダンさんの頭に出会い、近くに移って面白がって飲んでいると、ボクに気付いたダンさ

んが声を掛けてきた。話が弾み、最近若いのが辞めたから社長に話してやるということになった。面接で社長

から生まれ故郷の話を聞かれ、穂高の村の話をするとそれで決まった。社長も穂高山麓の出身だったのだ。

ボクは啓介でケイと呼ばれることになった。メモなどではKだ。


 あきちゃんは勤めて三日目、昼休みに工場の休憩所へ降りてきた。事務室に一人きりになってしまう社長も

ついてきた。いつもの通りダンさんはスポーツ新聞を広げ、ボクはボーっとテレビを眺め、ブンさんは段ボールの

山に寝転んで文庫本を読み、マルくんは工場内を歩き回って段ボールの切れ端やゴミを拾い集めている。あき

ちゃんがテーブルの椅子に座ると、ブンさんとマルくんを除くメンバーであきちゃん中心の輪ができた。話もあき

ちゃんが中心だったが、いきなりとんでもないことが起きた。入り口にパトカーが停まり、お巡りさんが入ってき

たのだ。ボクと同じくらいの若いいかにも律儀そうなお巡りさんで、前に停めてあるトラックを移動させるようにと

言う。段ボール板を運び込んだトラックで、運転手は駅前の方に昼飯を食べに行っている。いつものことなので

と社長が事情を話しても、これでは緊急車両が通れないからとにかくすぐ動かすようにと聞かない。仕方なくボ

クが駅前の方へ運転手を捜しに出かけようとすると、あきちゃんが「キーは付いてるかな」と独り言を言って出

て行った。皆があっけに取られてついていくと、あきちゃんはトラックのドアーを開けて運転席によじ登り、突き

出した右腕の二本の指で輪を作って見せた。「ケイちゃん後ろお願い」、「お巡りさん、免許証事務室のバッグに

あるからね」顔も見せずに大声を出したかと思うと、トラックは右斜め前方に進み出てすぐにバックを始めた。ボ

クは慌てて何も分らないままにただオーライ、オーライと叫んだ。そしてボクのオーライとは関係なく、工場内の

狭いスペースにすんなり収めてしまった。「お巡りさん、免許証もってくるね」とあきちゃんがニコッとしながら言う

と「い、いや結構、だけど公道を走るときは忘れずに携帯して下さい」お巡りさんは固い口調でそう言って出て行

った。「ここだって公道なのにね」とあきちゃんが何事もなかったように笑う。「あきちゃん、大型の免許なんて履

歴書になかったじゃない」と社長があきれたように言うと「あきちゃん昔長距離やってて腰を痛めて、もう乗りたく

なかったの」あきちゃんはそう言って休憩所へ戻っていった。ダンさんが「しかし人間わかんないもんだなあ」と呟

き、入り口ではブンさんとマルくんがきょとんとした顔であきちゃんを待ち構えていた。

 次の日の昼休み、あきちゃんは弁当を食べたあと、ゴミ拾いに余念のないマルくんに声を掛けた。マルくんは

仕事も休憩も一人が好きなので、ボクらの方からはめったに声を掛けない。意外にもマルくんはあきちゃんにつ

いてきてテーブルについた。あきちゃんは四角い箱の入った買い物袋をテーブルの中央に置いた。皆が注目す

る中取り出したのは百人一首だった。「ボーズめくりしよ」あきちゃんはそう言って字札はしまい、絵札を伏せて

三個の山を作った。あきちゃんはマルくんに簡単にやり方を説明し「じゃああきちゃんからね」と言ってすぐに始

めた。社長もダンさんもボクもあきちゃんの魂胆は見て取れたので、やりなれた風な顔して加わった。あきちゃ

んは皆が一枚めくる毎に「ヒメ」、「ダンノリ」、「フツウノヒト」、「ボーズ」と大きな声を出した。ボクらもたちまちそ

れに乗せられて声を合わせた。そして、またまた誰も予期しないことが起きた。あきちゃんに言われるままに札

をめくっていたマルくんが、ヒメやダンノリでは少しも嬉しそうにしなかったのに、ボーズを引き当て皆から「ボー

ズ」とはやされた途端「ハゲ!」と叫んで立ち上がり、ぴょんぴょん跳ねながら皆の周りを一周したのだ。マルく

んのこんな姿を見るのは初めてだったので皆一瞬驚いたが、あきちゃんの大笑いにつられて笑った。そして、何

度目かの「ハゲ!」で、これは予期できたというより期待通りに「ハゲ!、ハゲ!」と繰り返しながら、ダンさんの

頭をペロンとなでた。一番面白がったのはダンさんで、向こうで寝転がっていたブンさんも珍しく笑っていた。マ

ルくん同様、誰が勝つかなんて問題ではなく、マルくんがボーズを引き当てることだけが楽しみなゲームになっ

た。マルくんは何回でも同じ動きを繰り返し、ボクらは何回見ても飽きなかった。

 それから何日かして、あきちゃんが「皆に見せたいものがある」といって、紫色の上等そうなビロードの袋に入

った箱をテーブルに置いた。昼休みはすっかりテーブルの椅子に座る習慣のついたマルくんもじっと見つめてい

る。「あきちゃんの宝物よ」と言って慎重な手つきで入っていたものを取り出す。百人一首の箱をもう少し横長にし

たような大きさで、いかにも重厚そうな茶色い木でできていて、あきちゃんの手つきからしてまさしく宝物といった

感じだ。オルゴール?あきちゃんは慎重に箱の底を上にして、ゼンマイを回し始めた。キリキリいう音はこれまた

高級そうだ。そんなに巻いて大丈夫?と心配になるくらいあきちゃんは巻き続ける。皆は緊張して見守る。一番

熱心に注目しているのはマルくんだ。あきちゃんは箱をそっとテーブルに置きふたを開けた。皆いっせいに宝物の

中を覗く。ボクが「ウオーッ」と言うとマルくんも同じように「ウオーッ」と言った。ガラス張りの中で金色の無数の点

々が付いた長い筒が横たわり、同じく金色をした何本も何本も歯の連なる櫛のような板が寄り添う。ボクがつば

を飲み込むとマルくんもつばを飲み込んだ。あきちゃんが小さなレバーを操作すると、驚くほどの大きな音で響き

渡った。電気を使わない生の澄んだ音だ。どこかで聞いたことのあるメロディー。ここでまた今までにないことが起

きた。段ボールに横たわっていたブンさんがすっくと起き上がり、テーブルに駆け寄ってきたのだ「カンパネラ!」

今度はブンさんの声が響き渡った。長い一回分が終わるのを待って、あきちゃんが小さな声で話し始めた「カン

パネラ、この曲フジコ・へミングで有名になったけどね、あきちゃんそれよりずっと前から好きだったのよ。小樽の

オルゴール館で見つけたの」。特に曲の最後のうねるように流れる箇所は何度聴いても身震いが起きた。何回も

何回も繰り返し、次第にゆっくりになって、最後は音をはじき出す力も使い果たして静かに停まった。二十分以上

もの間誰も動くことはなかった。おかげでこの日の昼休みはボーズめくり無しで終わり、ブンさんがいつまでも熱

心にあきちゃんに話しかけていた。

 そして週末の金曜日、ボクが大失態を演じてしまった。朝から出張していた社長が退勤時間近くに戻ってきて、

作業場のしかるべき場所をきょろきょろしながらボクに声を掛けた「ケイ、あれはできてるか」。その瞬間ボクの頭

は一瞬にして血の気が失せたのか逆に血が昇りすぎたのか、訳の分らないくらくら状態になった。ポケットに手を

突っ込むまでもなく、朝あきちゃんから手渡されたメモを思い出した。『引き出物の7を三百』これをマルくんに伝え

そこなったのだ。特に指定が無いときの石鹸箱の2を組み立てるマルくんを何度も見てるのに思いつかなかった。

メモを受け取る際にあきちゃんと社長の歩く後ろ姿が誰かに似てると笑いあったが、あれでばちがあたったか。社

長とボクのやり取りを見ていたマルくんが素早く反応した「ザンギョー、アリマセーーン」そう叫んで飛び出ていっ

てしまった。あきちゃんがコンビニへ食べるものを買いに行き、社長も入れた残るメンバーですぐに取り掛かった。

マルくん以外は滅多にやることのない作業だ。ボクはひどく落ち込み、そして悪いことに申し訳ない気持ちを上手

く口に出すことができない。ボクは一段と苦しい思いで胸が締め付けられた。買い物から戻ったあきちゃんが皆に

おにぎりとお茶を配り、僕の隣に座った。あきちゃんはスピードを落とす余裕も説明する余裕もないボクの隣で、折

り方を一生懸命真似ようとボクの手元を覗き込み、次第に身体がくっついてきた。こともあろうにボクの心臓はドキ

ドキが高まり、凍り付いていた胸がぽかぽかし始めた。ボクは皆に悟られてはまずいと必死で恐縮してる風を装っ

た。一時間位したとき、社長の携帯が鳴った。氷川家かららしい。残業がまだ終わらないようなら今からマルくん

と母親がこちらへ向かうとのことだ。皆の関心が残り半分となった作業の山から「ザンギョー」をしにくるというマル

くんに移った。マルくんの家は歩いて五分ほどのところにある。親も姉弟も超優秀な一家で、おまけに母親はボク

がボクの中だけで密かにチョウビママと呼ぶ超美人の女性だ。皆の驚きの目をよそに、マルくんはすんなり席に

ついて作業に取り掛かかった。あきちゃんはすごーいと言ってマルくんの隣に移った。マルくんはボクらの二倍の

スピードでしかも箱を折る手つきが美しいのだ。チョウビママの話では、テレビの忍たま乱太郎の主題歌が終わ

ったら『ザンギョー』って言い始めたという。「ザンギョーしますかって私が言ったら、ザンギョーしますかって。つま

り、YES。うちみたいな子が自分のこと以外のことに気を回すなんてありえないと思っていたから嬉しくて」。ママ

はボクの隣に座り「ケイちゃん、私にも手伝わせてね」と言って、さらに耳元で囁いた「いつもよくしてくれるケイちゃ

んのおかげ、ありがとね」。頭も胸も混乱続きのボクは「いえ、あきちゃんの」と説明したかったのだけど、目からあ

ふれそうになるのをこらえるので精一杯だった。マルくんのおかげで作業は思ったより早く終わり、マルくんは最後

まであきちゃんとの距離を十センチほど保ち続けていた。

 そしてその後何日かして、最後のとんでもないことが起きた。昼休みにあきちゃんではなくて、見たことのない若

い男が入ってきた。「やあ、しばらく」挨拶もそこそこに「そこで女の子に会ったんだけど何?」。あきちゃんだと思う

けど『女の子』も『何?』もなんとも失礼な男だ。「え、あきちゃん?ここの事務員?驚いたな、あの子フーゾクにいた

子だよ」。段ボールからむっくと起き上がったブンさんが、文庫本を握った左手と右手をドラえもんのように握り拳に

してやってきた。それに気付かないで若い男が「ホント驚いちゃうね、店でもあきちゃんだったよ」と言った。男の前

に回ったブンさんがいきなり右腕を振り上げた。あっと思った瞬間振り下ろした拳でテーブルをドンと叩いた「フーゾ

クの何が悪い!」、男がたじろぐ「こ、こえーな、ブンさん、なんなんだよ」、「あきちゃんはどうした」、「知らねーよ」、

ブンさんは走って出て行ってしまった。マルくんが壁際でうずくまり両耳をふさいで「ウーッ、ウーッ」と唸っている。

こういう険悪な雰囲気が苦手なのだ。ダンさんが「マルくん、もう大丈夫だから」となだめ、「ゲン、悪いけど出てって

くれ」と若い男に言う。「じゃ、またあらためてくらあ」男は出て行った。ゲンというのはボクの前に勤めていた男だ。

半年前にここを辞めて、その三ヵ月後にはコンビニの店長になったと聞いている。

 帰り際に社長に呼び止められた。あきちゃんとは連絡が取れず、ブンさんが会社を辞めるとのことだ。そしてはじ

めて聞かされたのだが、ブンさんは元高校の先生で、自分の受け持っていたクラスから自殺者が出て先生を辞めた

のだそうだ。三十半ばの頃だという。社長が言うように、ブンさんはゲンという若い男に居場所を譲ってやったにちが

いない。ブンさんというのはそういう人だ。

 その晩ダンさんと駅前の例の飲み屋へ行った。ダンさんは「しかし実にいい娘だったよな」とボソッと言った。ボクは

声に出さずにこっくりした。そしてダンさんが酒が入るとよくやる語りが始まった。『かつてのいい時代』とその頃の

『夜の街』を懐かしむ語りだ。その語り口を聞き懐かしむ顔を見ているうちにボクはふと思い当たった。ブンさんは先

生を続けられなくなった頃、夜の街であきちゃんみたいな女性と出会ったんじゃないか。そう思ったら不意に、あのと

きの軽く触れたあきちゃんの肩と腰の温もりがよみがえった。あんな大失態のさなかで、隠すのが大変なくらいボク

はときめいた。そしてダンさんがまた独り言のように呟いた「二人はかけおちしたんだ」。『かけおち』、昔映画か何

かであった。そうか、二人はかけおちしたのか。ボクは動揺した。動揺した訳は自身でも上手く整理できない。そして

酔いのせいではなく胸が高鳴った。ダンさんがボクの反応に感付いたかこちらに顔を向けた。ボクは悟られまいとご

まかした「ボクも本をもっと読んでもっとまじめに生きてたら、あきちゃんとかけおちできたかなあ」、するとダンさんは

「ふん、ふん」と頷いて笑った。ダンさんがいい笑い顔している。馬を当てたときとはまた別の笑い顔だ。ボクはダン

さんに気付かれないようにペロンの頭を見てひと笑いし、コップのビールを飲み干した。




                                          

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