『N電秘話』
             

男が電車を降りてコートの右ポケットに手を突っ込むと、四つ折の紙切れが入っていた。

どうやら電車に乗っている間に誰かが入れたものらしい。男は電車に乗る直前まで両方の手を

ポケットに突っ込んでいた。紙切れを入れた当人が、どこからか動きを観察しているかも

知れない。男は後ろを振り返りたい衝動に駆られたがぐっと堪え、さりげなく取り出した。

『いつも電車であなた様のお姿を拝見しております。できれば一度お目にかかってお話を

したく存じます・・・』

  男は一瞬ドキッとした。だがすぐに思いなおした。中年をからかう悪戯に違いない。それでも

男は、紙切れを丸めることはせずにそのままポケットに戻した。そして駅の構内でも歩道でも、

一度も振り返ることはせずに勤め先に向かった。男は誰もいないロッカールームで、もう一度

紙切れを取り出して続きを読んだ。

『何か連絡を取る方法を教えていただけませんか。F駅降車ホームの改札から一番遠い位置に

ある柱に、〇〇の広告が張られています。もしよろしければ、その背後にメモをお願いします』

  直筆で書かれた文字は、教養を感じさせる大人のものだった。女の字に思えるがこういう

字を書く男もいる。朝の通勤電車にはもっとはつらつとした若い男がいくらでもいるのに、

何故よりによって自分のような四十代半ばのむさくるしい男に?一番からかい甲斐のありそうな

中年男と見られたか。


  次の日の朝、男はF駅の乗車ホームから線路一つ隔てた向かい側の降車ホームを見渡した。

紙切れにあった一番奥の柱には、何やら広告のようなものが張られている。やがて電車が入って

くると、その柱はぎりぎり最後尾の車両に隠れる位置にあった。一番後ろのドアから降りれば、

不自然な動きとならずに、しかも誰からも見られることなく通過できる位置だ。


  男はその日の帰り、四両編成の車両の最後尾に乗った。電車が終点のF駅に着いたときには、

その車両の乗客はほんの数人しかいなかった。そして一番後ろのドアから降りたのは男一人

だった。車掌室から一旦ホームに降り立っていた車掌が、すれ違うようにそのドアから乗り込んで

いった。男は柱を回り込むように歩いてみた。柱にはみやげ物屋の広告の板が取り付けられて

いて、その背後がちょうど手を突っ込めるポケットのようになっていた。男は思った。これは

単なる思い付きの遊び心ではなさそうだ、かなり計算した上で仕立てられている。悪意が込められた

からかいだったとしても、そうでなかったとしても。


  アパートの自室に帰ると、男はこの季節滅多に開けることのない窓をいっぱいに開けた。

窓から漏れる灯りで、塀の向こうの街路樹に、淡い緑色の葉が無数に張り付いているのが見えた。

風は全く無く、葉たちは微動だにしない。静止した外界のせいで、男は自分の胸の内が揺れる

のを感じた。もう何年も経験したことの無い感覚だ。男は畳に大の字になった。黒ずんだ二本の

蛍光灯が顔の真上にあった。


 
男は、ずっと遠ざけていた過去を半ば無意識のうちに手繰り寄せた。高校時代に出会った女性。

男は自分にとって最高の一生の女性と思えた。幸運なことに男もその女に気に入られた。

二人はそれぞれ別の大学に進んだが関わりは続き、やがて半ば同棲の暮らしが始まった。そして

二人は大学を卒業する直前に結婚した。男は将来性豊かな商社への入社が決まっていた。

一年後に女の子が生まれた。これほどの幸せがあっていいのかと男も女もそう思える日々が続いた。

ところが子どもが一歳を過ぎる頃から、二人の情の間に少しずつずれが生じ始めた。妻は娘が

成長するにつれて我が子への愛情が募る一方で、それに伴って夫の夜のふるまいが疎ましく

感じられるようになった。次第に溝は深まり、男は悩み、妻はそれに気づきつつも応じることが

できなかった。二人はしばしば醜い諍いを起こし、男は酒に酔い夜遅くに帰ることが多くなった。

そして三歳になったばかりの我が子が、差し出す父親の手を振り払うようになった。ついに男は

家を出た。妻子との間のすべてを一方的に断ち切り、会社も辞め、家から離れた町で一人暮らす

ようになった。


  男は流しの下から酒瓶を取り出した。窓枠に腰掛け、コップに注いでは一気に流し込む。そして

再び畳に大の字になり、目を閉じる。忌まわしい過去が支離滅裂に湧き上がり胸の内を駆け巡る。


――あれは、あのときの自分はどうしようもなかった・・・。

――ああ、なんと醜い男だったことか・・・。

男は半身を起こし、相変わらず動きを止めたままの木の枝を見つめる。

――妻はどうしただろう。娘はどうしただろう。


  酔いが回り、思考を止めようとすればするほど奈落の底へ落ち込んでいく。男はもがき苦しみ、

やがて意識を失くし、そのまま眠りに落ちた。


  男は次の日の帰り、広告の後ろにメモを落とした。そしてその翌日の夜に携帯にメールが入った。

『ありがとうございます。厄介なことをせずとも交信できるようになりましたことを大変嬉しく

思っております。もしもお目にかかることができましたら、私のことをお話ししたく、また

あなた様のことをお聞かせいただきたく存じます』


  男は一瞬恐怖におののいた。メールを送ってきた相手、この自分に会いたいと言ってきた相手が、

ひょっとして別れた妻ではないかと思えたのだ。他の女など考えられない。男は携帯の画面に

目を据えたまま身動きができなくなった。
  やがて男は携帯を閉じ、窓を開けた。かすかに風が

吹き込み、木の葉たちが怪しく揺れる。男はその揺れが、自分の胸の内を見透かし嘲笑して

いるかのように感じた。


『この私に会いたい、話がしたいというのはどういうことでしょうか。あなたはいったいどなた

ですか』


  男が送信すると、待っていたかのように着信が入った。『不躾は重々承知しております。

ともかくもお目にかかることができましたらいろいろお話ししたく存じます』


  男はやっと落ち着きを取り戻した。

――妻だとしたら、こんな手の込んだことはすまい。

『それではともかくも一度お会いしてみることにしましょう。どのようにしたらよいでしょうか』

『今度の日曜ご都合は如何でしょうか。もしもよろしければ、午前十時、K駅のホームの端から

改札口に向かってお歩き下さい。私の方から声をお掛けします。一つお願いです。目印となる

何か赤い表紙の本をお持ち下さい。当然ですが、一目私を見て、話す気になれなければ、何も

無かったこととしてやり過ごしてください』


『了解しました』

K駅のホームは一つしかない。しかも線路は片側にあるだけで、線路の向こうは国道が走り

その先は海が広がっている。単線の軌道を上り下りの電車が交互に行き交い、上りが行くと

その五分後に下りが来て、そのまた七分後に上りが来て・・・、その繰り返し。それ故電車が

走り去っても、ホームに人が絶えることはない。日曜の午前十時にホームの端から改札口まで

歩いても、どこに相手がいるのか、いつ声が掛かるのかも分からない。どこからか、愉快犯が

ほくそ笑みながら観察しているだけかも知れない。はたまた未だ見ぬ女性か。ひょっとすると、

日常に無い刺激的な出来事が待ち構える?そう考えると、男は図らずも胸がときめいた。

久しく無かったことだ。


男は酒瓶を取り出そうとしてふと首を傾げた。

――赤い表紙の本なぞ無い。赤い紙でカバーするか。それにしても何故目印となるものを?

自分を知っているはずなのに・・・。




 
女が郵便受けを開くと、四つ折の紙切れが入っていた。女は部屋の灯りを点け、それを開いた。

『ストーカーのようなことをしてごめんなさい。でも私は性質の悪いストーカーではありません。

あなたを初めて駅前のスーパーでお見かけしたとき、是非ともあなたとお話がしたいと思い

ました・・・』


女は反射的に、足先に、そして紙切れを持つ右手に力が入った。

女には思い出すのもおぞましい過去があった。それ以来、男と関わりたいという気は失せ、

男を避けてきた。


女は一旦読むのを止め、買い物袋の中身を冷蔵庫に収めた。

あれからもう十三年になる。ある晩、郷里の父親から電話が入った。東京の大学へ通うように

なり、卒業してからも実家には正月以外はほとんど帰ることはなかった。母親が危ういという

報せだった。そのとき女の部屋には男がいた。女は幸福の絶頂にあった。その幸福を逃したく

なかった。男にせがまれ、自分も男とずっと一緒にいたかった。その晩もその次の晩も家に

帰ろうとしなかった。そしてそれから三日後の晩、父親から再び電話が入った。母親が

亡くなった。


通夜の席で父親は、どうして帰らなかった、と娘を責めなかった。そしてただ一言

「母さんはお前に会いたがっていたよ」

と囁いた。小さい頃のように叱られたら泣いただろうに、泣くことさえできなかった。女は、

悲しみよりも自戒の念で胸が押し潰された。そしてそれ以来女は自分の中の女を失くし、

男から遠ざかるようになった。
『先日、まったくの偶然にこの通りであなたとぱったり

出会い、このアパートに入られるところを見ました・・・』


  父親は五年前に亡くなった。今度は息を引き取るまで寄り添った。女は父親の手を握りながら

「お父さん、お父さん、お母さん、お母さん」と何度も繰り返した。そして

「お父さん、お母さん、ごめんなさい、バカな娘をどうか許してください」


と泣きすがった。女の叫びが父親に届いたか、定かではなかった。

『私はあるときから、女性と話ができなくなりました。でもどうしてかは上手く言えませんが、

あなたとなら話ができそうな気がしたのです・・・』


  自分を騙そうとしている?でもこんな自分を騙して何の得になる?何も女を感じさせない女を

騙して・・・。しかしそんな疑いはすぐに失せた。こんな自分と話ができそうな気がした、

そう直感したのは自分と同じような過去を背負っているから?そう思い当たると、女は不覚にも

涙を流した。


『一度お目にかかって話をしていただけないでしょうか。でも、いくらなんでも見知らぬどんな

人間か分からない男といきなり話なんかできませんよね。そこでこうしましょう。まずは私を

見てください。そしてもしもこの男となら話ができそうだと感じたら声を掛けてください。

そういう気が起きなければ勿論やり過ごしてください。


 
今度の日曜、私はF駅発の電車の最後尾に乗って朝の十時にK駅に降り立ちます。そして

ホームの端から改札口に向かって歩いていきます。何事も起きなければ、私はそのまま改札を

抜けて海へ向かうことにします。目印に赤い表紙の本を携えて行きます』


(追)としてあった。

『念の為申し添えます。私の方からは決して声を掛けるようなことはしません。この先も

ずっとです。あなたを傷つけるようなことは決してしません。そのような良識だけは持ち備えて

います』





 日曜の朝、N電F駅の乗車ホームはすべての乗車口に長い列ができていた。もうそろそろ梅の

開花の報せが聞かれそうな、潮風を心地よく肌に感じる季節が始まりつつあった。電車はほぼ

満員の状態となり、定刻九時四十ニ分に発車した。K駅にはちょうど十時に到着する。


  四両編成の電車の三両目に一人の老人が乗っていた。老人は駅で列の終わりに並び、最後に

乗り込んでドアに張り付いていた。
街の真ん中にあるビルの二階から抜け出た電車は、

とろとろと高架を滑り降りる。ほどなく都会の喧騒は失せ、閑静な住宅街に入る。観光スポットの

N駅を過ぎると、商店街の真ん中を時に我が物顔にまた時に遠慮がちに走る。やがて一気に

海が開け、十時ちょうどにK駅に着いた。


 老人は、降車する客たちに進路を譲るべく、一旦ホームに降り立つ。背後を、四両目から降りて

改札口を目指す客たちがぞろぞろ歩いていく。その一団が尽きるあたりに少し間を置くようにして、

一人の中年の男の姿があった。手に赤いものを持っている。老人は乗車する客たちの最後に

乗り込む。やがてドアが閉まり、再び老人はドアに張り付く。目の前を右手に赤い表紙の本を

持った男が歩いていく。電車が動き出し、老人が男に追いつきそして追い越す。男の正面が

見えた。顔を上げ前を見据えている。男は実に晴れがましい顔をしている。


――ほら、顔を上げて歩けばなかなかいい男じゃないか。まるで何かの検査会場に向かう威勢

の良い若者のようだ。そうだよ、受かるか落ちるかなんて問題じゃないよな。


 電車は次第にスピードを上げ、老人は改札口を通過する。そして視界からホームが消えようと

したとき、一番改札寄りのベンチから一人の女が立ち上がり、男に近づいていくのが見えた。


老人は後ろを振り返り、乗客たちの頭の間に早春の陽光にきらきら輝く海を眺める。はるか沖の

ほうに白い三角のヨットが浮かび、高く盛り上がることのない波の間に、板に張り付いて

照れくさそうに漂ういくつかの黒い影がある。老人は口ごもるように呟く。


――なんだ、サーファーどころか、まるでおたまじゃくしじゃないか・・・。これで九分の四、

やっと四割越えか。


                                                       

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